衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年04月19日    金曜日     第1開示 合計1442開示

推理は永遠に現量の観察に代わることはできない

推理は永遠に現量の観察の代わりにはなりません。もし代わりになるなら、仏はご自身の内心の証量を少しずつすべて私たちに語って聞かせ、その後私たちは数十年かけて理解し暗記し発揮して、最後には心に染み込んで、それで成仏してしまうのではないでしょうか。数十年かけるだけで仏の智慧と完全に等しくなれるなら、それはなんと便利な修行方法でしょう。仏はなぜ私たちにそのような修行を教えなかったのでしょうか。さらに戒定慧を修めと言われるほど、それほど苦労するのです。このように修行して一生で成仏するのは難しいことではなく、諸仏はなぜ三大阿僧祇劫もの長いあいだ修行されたのでしょうか。仏語を暗記することは、戒定慧や菩薩の六度を修行するより無量倍も楽なはずです。もし仏がすべての仏法修証の秘密を私たちに教えてくださったなら、私たちは皆、一切種智を証得して、速やかに成仏できるのではないでしょうか。

真実の道理は口耳相传のものであり、自分の胸の内から掏り出したものでなければ、永遠に偽物であり、風や波に耐えられません。意識の推理を多用すれば、意根は力を発揮できなくなります。禅宗の祖師たちが最も嫌い、反対したのは、意の下の卜度、情思意解であり、それは真の功夫ではないと言いました。意識の心を多用すれば、意根は用をなせず、それでは証実ができません。これが消えればあれが長じるのですから、誰の知見・証量を用いるのが最善なのでしょうか。

意根の主導性は証実の基礎です。もし意根で証実しなければ、天下の至る所に煩悩の深い聖人がいてもおかしくないことになります。意根で証実できるのは、久しく修行を経た大善根・大福德の人だけが証得でき、そのような人はごく少数です。各自が食事すれば各自が満ちるように、意識が知り証したものは意根の代わりにはなりません。意根は自らも知り自らも証してこそ、疑を断ち、生死の問題を解決できるのです。意根に証させようとするなら、禅定は欠かせません。なぜなら証実とはすなわち三昧であり、すべての三昧は禅定を離れられないからです。禅定がなければ三昧はなく、三昧がなければ証実はありません。理はこの理であり、どれほど多くの密意を知っていても役には立たず、疑を断つことはできません。

私自身の身において、定があるときはどのような智慧で、身心はどのような状態か、定がないときはどのような智慧で、身心はどのような状態か、はっきりと感じ取ることができ、きわめて明瞭です。だから禅定がなければ意根は力を発揮できず、実際の証量もなく、煩悩も降伏できません。

証実の前提として禅定が必要であり、さらに如理に思惟してこそ智慧が生まれます。智慧を生み出すにあたって、禅定は必要条件の一つであって、すべてではありません。しかし禅定がなければ、確かに真実の智慧はありません。乾慧、つまり実際の問題を解決しない智慧はあり得ますが。外道の禅定を取り入れて、私たちの観行 (vipaśyanā-caryā) の智慧を加え、この二者を結合すれば、深い仏法を証得することができます。二者が分離すれば、証実はありません。さらに菩薩の六度、三十七道品も含めて、すべて修める必要があり、越えることはできません。これらの条件が満たされてこそ、証実できるのです。

——生如法師の開示
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金剛経唯識深義(一〇〇)

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