意識と意根の修行関係は、人が演説のために舞台に上がる際の準備に譬えられます。舞台下で十日も半月も前から、日々精進を重ねて練習やリハーサルを重ねるのは、わずか一時間や半時間の本番で、普段入念に準備した内容を完璧に発表し、大衆を感化し感動させるためです。舞台下での準備は意識の修行に相当し、舞台上での正式なスピーチは意根の修行に相当します。故に意根を修めることは意識を修めるよりもはるかに重要であり、意根の修行こそが成否を分け、修行が成就したか否かの印です。たとえ舞台下でどれほど練習を積んでも、本番で失敗すれば誰も喝采せず、観客は舞台下での努力など気にかけず、ただ舞台上の演技だけを見るからです。同様に、意識がどれほど精進しても、もしそれが意根にまで深く達していなければ、何の結果も生じず、期待した目標も達成されず、因果は情け容赦なく、何も変えることができません。
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