衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年04月17日    水曜日     第4 回の開示 合計1437回の開示

悟りは累世の修行の成果である

ある人は、意識や意根は本質的にいわゆる自己など存在せず、すべて如来蔵自身の戯れであると考える。意識も意根も我ならず、すべて如来蔵であるというのは相似的な理解で、信頼に足りない。このような認識はあまりにも表面的で、何の証拠もなく、意識すまでも真実とせず、ましてや意根はなおさら真実ではない。真に証得した時のみ、意識も意根も我ならぬことを知り、第八識を証得した後に、現観によって第六・七識が如何に第八識から生じるかを観察して初めて、六・七識の本質もまた第八識であることを真に知るのである。この現観は非常に困難で容易ならざるものであり、多大な証量と優れた禅定力を要する。そうでなければ依然として理解の域を出ない。

ある法理は万年理解しても証悟の縁が現れない。真実の証悟には累生累世にわたる善根・福德・各種見道の資糧を積む必要があり、口で言うほど容易に証得できるものではない。

ある人々が仏在世時の人々の証悟が非常に容易であったと主張するが、実際彼らがその果を得た時、既に相当の期間にわたる福德資糧を積み、戒定慧を具足していた。仏という大いなる因縁に遇い、一瞬にして証悟したのである。彼らの前世の身分は皆特異で、生生世世にわたり修行に精進していた。その中には多くの者が示現であり、仏陀の弘法に合わせるため、一班の中に様々な身分の者がおり、十方世界から来て仏陀の戯れに協力したのである。

何故こう言うのか。例えば仏法を学ぶ者は畜生道が六道輪廻の一つであることを知っている。我々も前世に畜生であったことがあり、畜生の肉を食することは衆生への慈悲心がなく、畜生への負債を負い、将来倍返ししなければならない。しかしこのような知識に何の役割があるだろうか。全て実証がなく、ただ仏陀の説く因果の道理を信じているだけで、自ら経験したことは忘れ去っているため、心中では依然として半信半疑で、肉断ちの戒めを守ることがかくも困難なのである。信じることは信じても、実行は別であり、実証なき信仰は作用を起こし難い。今学ぶ全ての理論的知識も同様で、意識では理解し認めていても、実証がなければこの理解は依然として実際の作用を有し得ない。生死の大事において、容易に証悟することは不可能である。無量劫また不可説劫を輪廻し、無明は不可説なる深さであるのに、どうして本を読み、学び、理解しただけで証得できようか。多くの人が僥倖を抱いているが、実は便宜主義的な心理が働いており、これはまさに大多数が依然として無知で無明が深いことを証明している。

真に我見を断つ時、断じた者は一人残らず実直になる。誰が断じても実直になる。真実に無我を証得し、真に無我を知れば、心は直ちに謙虚になり、再び自我を誇示せず、我が証果を自慢することはない。もし自慢の心があれば、我見は断たれておらず、しかも証果を得た我が一つ増え、こうして二つの我が現れれば、当然煩悩は以前より一層重くなり、全く増上慢に陥る。

私は証果明心した人々に多く出会ったが、皆やや専横的で増上慢に満ち、自分を天よりも高く感じていた。心中の二つの我は一つまた一つと明らかであるのに、自らは気付かず、まさに果によって害されたのである。

——生如法師の開示
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