如来という言葉は、表面的には五蘊の身仏を指し、内面的には法身仏を指す。法身仏は形や相がなく、仏の無垢識と衆生の如来蔵である。成仏後、仏の七識と法身の無垢識はその性質が近似し、七識は完全に無垢識に転依し、あらゆる無明を滅尽する。その心性は真如に極めて近く、心所法も同一であり、五遍行心所・五別境心所・善十一心所を具え、八識全てが二十一の心所法を備える。
法身仏としての如来は、真如の心体、即ち如来蔵を指す。真語とは正真の言葉である。現量の言葉とは、如来蔵が現量境を顕現し、比量や非量を含まないことを意味する。全て事実に符合し、衆生の業種にも合致し、常に衆生の業行の原貌を如実に現出する。
実語とは如実の言葉である。衆生が業を造る際、善悪や無記を問わず、如来蔵は全てを如実に記録・保存・出力し、衆生の業果を如実に実現する。決して衆生の業行・業種・業果報を変更したり漏らしたりせず、どの業であればその業を記録し、どの果報であればその果報を実現する。
如語とは、一方で如実語・真実語を指し、他方で心体の如如不動性を指す。如来蔵が一切の法を変造する際、内心は如如不動で、心の動きも生じない。情緒も感情もなく、完全に捨受の状態である。
不誑語とは、誑(欺くこと)がないことを指す。如来蔵は決して衆生を欺いたことがなく、衆生を騙したことがない。しかし衆生の六識は常に口業が不善で、言葉で欺き、真実語や如実語を語らず、妄語・両舌・綺語・悪口を絶えず発する。事実を隠蔽し虚偽を創作し、如実でない言葉・妄語・嘘・弁解・嫉妬など、あらゆる口業を造り続ける。
不異語とは、異(変異・差異・変更)がないことを指す。異語とは表裏のある言葉、相手によって言うことを変える、時によって主張が変わる、約束を反故にするなどの行為を指す。これらは六識の心行によるもので、六識が造る口業の不善、口徳の欠如である。また悔い改めを知らず、煩悩悪習に陥っている。一方如来蔵は二つの言葉を発せず、矛盾した言語を使わず、衆生の善業種を保存しながら悪業種を出力することも、その逆を行うこともない。業種と因果に対し常に忠実で、決して変異しない。
五蘊の身を持つ報身仏・応身仏・化身仏も、法身仏と同様に、永遠に真語者・実語者・如語者・不誑語者・不異語者である。仏の七識心は一切の無明煩悩と煩悩習気を滅尽し、究竟に識を転じて智と成し、その徳は比類なく、口業は完全無欠で一点の瑕もなく円融無礙である。十方世界の全ての衆生をして、比類なき敬慕と帰依を捧げしめる所以である。
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