衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2019年04月13日    土曜日     第2 回の開示 合計1421回の開示

楞厳経第四巻原文

富楼那。また汝が問うて言う、「地水火風の本性は円融にして法界に周遍するというのに、何故水火の性質は互いに滅し合わず、虚空と大地が共に法界に遍在しながら相容れないのか」と。富楼那よ、譬えば虚空の体は諸相に非ずといえども、あらゆる現象の現出を拒まない。何故か。富楼那よ、かの大虚空は日照れば明るく、雲が集まれば暗く、風が吹けば揺らぎ、晴れ澄めば清らかで、気が凝れば濁り、土が積もれば霞となり、水が澄めば映る。汝はどう考えるか。これら様々な有為の相は、それらの縁によって生じるのか、それとも虚空自体に具わるのか。もし縁によって生じるというならば――

富楼那よ、日が照らす時、十方世界は皆同じく日の色となるべきなのに、何故虚空に円満なる日輪を見るのか。もし光明が虚空に属するなら、虚空は自ら照らすはずである。ならば夜半に雲霧が生じても光を失うことはないはずだ。この光明が日にも虚空にも属さず、しかも虚空と日輪と別物ではないことを知るがよい。現象を観るに元来虚妄であり、指し示すべき実体はない。まるで空中の幻花に実を結ばせるようなもので、どうしてその相の相剋を問い詰めようか。本性を観るに元来真実であり、ただ妙覚明のみである。妙覚明の心は本来水火の性質を持たないのに、どうして相容れぬと問うのか。真実の妙覚明もまた然り。

汝が虚空を明らめれば虚空が現れ、地水火風が各々顕現すれば各々が現れる。もし同時に顕現すれば、共に現れる。どうして共に現れるのか。富楼那よ、譬えば一つの水に日影が映じ、二人が共に水中の日を観て東西に分かれて歩めば、各々に日が付き従う。東西に分かれた二人に日影が各々付くというのに、元来一つの日があったのではないかと難じるべきではない。各々の日が二つあるのに、どうして最初は一つの影として現れたのか。これらは全て虚妄であり、確かな根拠はないのだ。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

金剛経唯識深義(八十二)

次の記事 次の記事

金剛経唯識深義(八十五)

ページのトップへ戻る