衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年04月12日    金曜日     第3 回の開示 合計1420回の開示

金剛経唯識深義(八十二)

世尊は言われた。「何故か。須菩提よ。例えば私が過去に歌利王によって身体を切断された時、私はその時、我相なく、人相なく、衆生相なく、寿者相がなかった。何故なら、私が過去に節々を切断された時、もし我相・人相・衆生相・寿者相があれば、必ず瞋恨心を生じたはずである。しかしその時、私は実際に歌利王に対し瞋恨心を起こさなかった。

須菩提よ。また過去五百世において忍辱仙人として修行したことを思い起こすが、それらの世においても、我相なく、人相なく、衆生相なく、寿者相がなかったのである。」

釈:世尊が当時我相を持たれていたならば、「私の身体が損なわれた」「私は辱めを受けた」と考え、身体の痛みを感じ、心に憤りや苦しみを抱き、歌利王に瞋恨心を起こしたであろう。しかし世尊は実際、身体の痛覚を超越し、心に不平も被辱感もなかった。これは世尊が智慧と禅定によって受陰を尽くし、身体に感覚を生じさせず、四肢を切断されても疼痛なく、意識を失うことなく耐え忍ばれた証である。

もし人相・衆生相があれば、歌利王を怨み、その残忍非道を憎み、復讐心を抱いたであろう。寿者相があれば生命の危機を感じ、抵抗して身体の破壊を防ごうとしたであろう。しかし世尊は抵抗も瞋恚も起こさず、四相を離れていたことを証明された。

須菩提よ、世尊は五百世にわたり忍辱仙人として四相を離れ、六波羅蜜の修行を成就された菩薩であった。各世ごとに我相・人相・衆生相・寿者相を超越し、忍辱行を実践されたのである。

——生如法師の開示
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