前五識の心所法について、まず五遍行心所法がある。五識が生起すると同時に、五遍行心所法が伴って運行し始める。五識には五別境心所法も存在し、その中の欲心所法は五塵に対する希求・追求・攀縁を指す。これは主に意根の働きによって引き起こされ、また意識の欲心所の影響を受けて現行する。稀に五塵境の吸引によって現行する場合もある。例えば眼識が柔らかな光を感知し、さらに触れようと求める行為が欲心所法に当たる。
その光から離れたくないという心理は貪心所法に属し、逆に光を避けようとする心理は一応瞋心所法に分類される。実際、五識自体に瞋心所法は存在せず、これは意根の制御によって現れる。例えば人を睨む行為は身識の働きであり、意根の瞋りを体現している。中には意識の瞋りが混在する場合もある。明確に憎しみを認識して起こる瞋りは意識のものであり、理由なく人を嫌悪する場合、または思考を伴わず瞬間的に生じる瞋りは意根に由来する。
五識の勝解心所法は境界に対する明らかな了別性であり、曖昧さがなく、自身が認識する内容を正確に把握する。念心所法は五識が境界を了別した後に生じる記憶を指す。境界を念じ続ける行為は主に意根の念、あるいは意根の欲によって引き起こされ、時に意識の影響を受ける。五識自体の念は不明瞭で、明確な念性を有さない。定心所法は境界に対する集中した了別性であり、これも主に意根が主導し、時に意識の影響を受ける。五識自体に能動的な定の意図や行為は存在しない。慧心所法は五塵境界を正確に判断・了別し、混乱なく認識する能力である。
五識は粗雑な五塵しか対処できず、法塵を了別できないため、慧は極めて劣り、善悪の心所法もほとんど持たない。善悪心所法は主に法塵上で作用し、思想・観念は法塵に属する。第六・七識が法塵に対応するため、多様な善悪思想が生じるが、五識にはこれが存在しない。五識には根本煩悩である貪・瞋・痴・疑が僅かにあり、貪の一部は五識自ら生じるが、大半は意根が主導する。瞋はほぼ意根に起因し、痴も主に意根によるが、一部は五識自身の認識力の弱さに帰する。
五識の疑は自らが了別する五塵の正確性を疑うのみで、他法を疑うことはない。意識や意根のような広範な疑いは、五識の心力の弱さと思考力の欠如により生じ得ない。五識の智慧は極めて低く、単独では善心も煩悩もほとんど持たず、中性状態が多い。善悪心所法は意根の駆動と意識の影響によって初めて現れる。
五識の大随煩悩には、意根に起因する不信・懈怠・放逸・失念・不正知・散乱・昏沈が含まれるが、掉挙はなく、中随煩悩の無慚・無愧や小随煩悩も存在しない。当然、これに対応する善心所法もない。四禅八定を修得した外道凡夫の場合、五識の大随煩悩は軽減されるが、根本煩悩は断除できない。各個人の五識心所法は意根の差異により異なる。
五識には睡眠心所法があり、睡眠中は一時的に断滅する。また尋・伺心所法を有し、尋は眼識が粗く探索する行為で、意根の制御下にある。伺は五塵の大まかな位置を探した後、その出現を待ち、あるいは詳細に観察する働きである。五識に悔心所法は存在せず、思考力の不足と法塵了別不能による。
五識の善心所法は概ね意根に依存して存在し、信・無貪・無瞋・無痴・精進・不放逸・行捨・不害を含む。意根が不善の場合、五識も不善となる。五識単独では善心所法を持たず、仏地において識が智に転じた際に完全な善心所法を具える可能性があるが、現段階では確認できない。
成仏前の五識心所法は基本的に変化がなく、意根主導のものを除き、意根の善悪に従って変動する。五識単独で対応する心所法は五遍行・五別境・不定心所法中の眠・尋・伺の計13種に限られる。意根に依存する善悪心所法を加えると合計32種となるが、これは暫定的な観察結果である。六七識は成仏過程で三度の転識成智を経るが、五識は成仏時に一度だけ転換し、その時初めて心所法が変化する。これは五識単独では善悪心所法が少なく、意根に依存していることを示す。
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