衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年04月11日    木曜日     第7 回の開示 合計1415回の開示

真の参禅修行とはどのような状態でしょうか?

真に禅を参究して修行に励む時、禅定が深まっている故に意識はほとんど用事がなく、ただ末那識が伺う状態にあって深く追究し続けます。因縁が具足した時、末那識は突然五蘊の上で運行する如来蔵を見出し、悟りを証得します。同時にこの消息を意識に伝達し、意識は豁然として悟り、末那識とほぼ同時に証悟します。末那識が意識に合図して膝を打つのです。末那識が悟りを証得すれば、その時の身心は平常とは異なる反応を示し、身心軽安、心に歓喜が湧き、安らかで自在となります。意識だけの理解ではこれらの兆候や反応は現れません。意識は主体とならず、身根を主導できないからです。禅定がなければ、あるいは浅ければ、末那識は役に立ちません。末那識が縁する法が多すぎて、単独で参究できず、意識と共に参究できないからです。

一般的に、真に何らかの法を証得する場合、必ず禅定があり、末那識が参究過程に関与します。最終的には末那識が証悟し、その後意識に伝えます。もし意識が先に悟り、末那識に伝える場合、末那識は充分に参究思量することができず、意識の見解を無理に認めることになり、悟りの程度が浅く、末那識が完全に理解していないため、容易に退転します。末那識自らが先に証得した場合は往々にして強固な確信が生じ、退転することはありません。

意識だけが単独で思惟理解する場合、末那識は全体の思惟活動に参与していないため、たとえ意識がある理を理解しても、末那識は依然として混乱し疑惑を抱いたままです。意識は粗い性質のため、通常末那識の心理状態を察知できません。意識だけが単独で導き出した結論や答えは、いずれも究竟的で徹底したものではなく、証拠が不十分です。退転の議論に至ることもありません。そもそも前進していないのだから、退歩などあるはずがないのです。

——生如法師の開示
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