意根の了別する範囲は極めて広く、一切の法を了別することができる。それらの法が変動するか否かにかかわらず、長期間変化しない法であっても、意根は依然として了別可能であり、微細で不変の法も了別し得る。もし意根が了別しない法があれば、六識を生じて再び微細に具体的に了別することはできない。
意根は勝義根内の法を了別するだけでなく、勝義根外の法も了別する。六塵の境界は全て了別可能であり、そうでなければ六識を生じることはない。色塵を了別した後、具体的にどの色彩で何物であるかを了別しようとすれば、眼識意識を生じる。声塵を了別した後、どのような音であるかを知ろうとすれば、耳識意識を生じて具体的に了別する。その他の色・声・香・味・触・法についても同様である。
粗重な五塵も了別可能である。例えば目の前に色彩豊かな花々がある場合、意根が紫色の花に興味を抱けば、紫色の花において眼識意識を生じて専注して了別する。意根の興味が深まるほど、了別時間は長くなり、より専注する。眼識意識が紫羅蘭を一二時間も専注して観賞できるのは、意根が紫羅蘭に非常に興味を持ち、常に紫羅蘭に触れ、紫羅蘭を了別し続けている証左である。そうでなければ眼識意識は消失し、紫羅蘭を欣賞し続けることはない。他の幾塵についても同様である。
なぜ意根が変動する変化の法塵のみを了別すると言わねばならないのか。不変の法塵・六塵も全て了別可能であり、そうでなければ覚照作用を失い、六識を生じることはできない。
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