衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年03月29日    金曜日     第1 回の開示 合計1372回の開示

金剛経唯識深義(四十二)

正信稀有分第六

原文:須菩提が仏に白して言う。世尊。頗る衆生有りて是の如き言説章句を聞きて、実信を生ずること有らんや。仏須菩提に告げたまわく。是の説を作すこと莫れ。如来滅後の後の五百歳に、戒を持し福を修むる者有らん。此の章句に於いて能く信心を生じて、此を以て実と為さん。当に知るべし、是の人は一仏二仏三四五仏に於いて善根を種えたるに非ず。已に無量千万仏所に於いて諸の善根を種えたるなり。是の章句を聞きて、乃至一念の浄信を生ずる者、須菩提よ、如来は悉く知り悉く見たまう。是の諸の衆生は是の如き無量の福徳を得ん。

釈:須菩提が問う「まことに衆生がこのような説法と義理を聞いて、真実の信心を起こすことがありましょうか」と。前章で世尊は「凡そ所有の相は皆是れ虚妄なり、若し諸の相の相に非ざるを見れば、即ち如来を見ん」と示された。須菩提はこれを聞いて疑問を生じ、衆生がこの深遠な章句の義理を聞いて真実に信受できるかどうかを疑った。

この問いは時機を得ていた。衆生の根機利鈍不同、福徳智慧不同により、法への信受も異なる。薄福鈍根の衆生は真実の大法を信受し難く、往々にして疑謗を生ず。古来このような事例はあり、法華会では五千人の弟子が大乗を信じずに退席したではないか。これは正常な現象であり、歴劫に亘って実相法を信受せずに謗法する事例がある。衆生は結使を断たず、恒に我見・見取見・疑見などの邪見を生じ、正知見を具えず、謗法不信は必然である。我見とは五蘊十八界を主とする知見で、この我を実体あるものと認め、五蘊の機能作用を実在と見做すものである。

——生如法師の開示
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