「間」とは間隔や断絶を意味し、「無間」とは連続的で絶えることなく、間隔も断絶もない状態を指します。「作意」とは、法に対して注意を引き起こし、心を法に向け、法に注視することを意味します。作意は識心の五遍行心所法の一つであり、八つの識すべてに作意が存在し、いずれも特定の法に向かい、特定の法に注視することが可能です。
第八識の作意は無間でしょうか、それとも有間でしょうか。一切の法は第八識によって生じ保持されることを我々は知っています。第八識が一旦ある法への作意を止めれば、その法上で運行せず、その法上に種子を生じないため、その法は必ず消滅します。従って、ある法が存在する限り、第八識の作意が連続的に運行している必要があります。しかし一切の法の存在は、第一に第八識が成熟した業種に基づいて任運に生起し、第二に意根の作意と攀縁によって生じます。従って時として第八識の作意は意根の作意によって引き起こされ、意根が一旦作意を止めれば、第八識もまた特定の法を生じ保持しなくなり、その法は必然的に消失します。つまりある法が存在する場合、必ず意根の作意心所が運行しており、ある法が持続的に存在する限り、意根の作意心所法が継続的かつ絶え間なく運行していなければなりません。そうでなければその法は必然的に消滅します。
従って第八識の作意は無間であり得ると言え、意根の作意も無間であり得ると言えます。意識の作意は無間であり得るでしょうか。我々は意識が毎日多くの時間において断絶し、自発的に滅していくことを知っています。意識に無間作意がある場合でも一時的に持続するもので、24時間絶え間なく続くことは不可能です。意識が一時的に無間作意する状況においても、完全に意根の無間作意によるものであり、意根が一旦作意を止めれば、第八識は意識の種子を出力せず、意識は必然的にこの法上で消失します。
従って意根の無間作意がある場合にのみ、意識が一時的に無間作意することが可能となります。実際にはほとんどの場合、意識は作意を一時的に続けると疲労し、散乱して滅していき、長期間にわたって作意することはありません。五識の作意は更にこの傾向が顕著です。意根の作意がなく、第八識の作意がなければ、六識は一瞬の作意すら存在せず、六識は全て第八識と意根に依存して現行し運行するもので、独立できず、自主性を持たないからです。
意根が一旦ある法に対して無間作意を形成すれば、それは既に意識による薫染が完成したことを意味し、自覚的に証知した道理に従って六識を指揮し実行するようになり、心行は必ず変化し、身口意行も必ず変化します。意識が再び指導や注意を促す必要はありません。意根が薫染されていない場合にのみ、意識による絶え間ない指導、注意、調整が必要となります。これは意根が自覚的でなく、薫染され証法を得ていないため、このような状態になるのです。
1
+1