如来蔵は形も相もなく、五蘊に遍く、一切の処に遍く、一切の界に遍く、一切の時に遍く、一切の地に遍く、一切の法に遍く、全世界宇宙の器世間において至る所にその痕跡を留めている。故に如来蔵には「どこにある」「どこにない」という説は存在せず、「どこへ行く」「どこへ行かない」という説も存在しない。来ることも去ることもないのである。来去がないのならば、六つの遍在がある中で、衆生の如来蔵は互いに重なり合うのであろうか。それらは相互に影響し合い、交流するのであろうか。
各衆生の如来蔵はこれら六遍を具えているが、如来蔵と如来蔵が重なり合うことはない。何故ならば全て形相なきが故である。しかし如来蔵同士は互いに交流する。同一類の識心であるが故に、必ず相互に作用を及ぼし合い、互いに通じ合うのである。縁に遇えば、相手の心体に蓄えられた種子を了知し、相手が執持する五陰身を了知するに至る。如来蔵が相手の如来蔵の種子を了知する時、その如来蔵が現出させる衆生の五陰の状況を全て了知し、生生世世の事柄をも知る。故に如来蔵同士の間に秘密は存在しない。
我々の如来蔵は相手の如来蔵に縁すれば、その如来蔵の一切を了知する。相手の如来蔵の種子を我が如来蔵も了別でき、我が如来蔵の種子を相手の如来蔵も了知する。故に縁ある衆生の如来蔵同士は、互いの業種を了別し、各自が執持する五陰を警覚させる。五陰同士には感応が生じ、善縁あれば融和吉祥となり、両衆生の五陰は大いに和楽を覚える。もし悪縁ある時は、如来蔵同士が互いの悪縁の種子を知り、執持する五陰を警覚させる。両五陰衆生の関係は窮屈となり、各自の如来蔵が悪縁の種子を出力すれば、両衆生の五陰は調和せず、背反が現出するのである。
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