観無量寿経第一観(下文に配図一あり) 原文:(佛说)如来今者,教韦提希,及未来世一切众生,观於西方极乐世界。以佛力故,当得见彼清净国土。如执明镜,自见面像。见彼国土极妙乐事,心欢喜故,应时即得无生法忍。
佛告韦提希:汝是凡夫,心想羸劣,未得天眼,不能远观。诸佛如来,有异方便,令汝得见。
时韦提希白佛言:世尊!如我今者,以佛力故,见彼国土;若佛灭后,诸众生等,浊恶不善,五苦所逼,云何当见阿弥陀佛极乐世界?
佛告韦提希:汝及众生,应当专心系念一处,想於西方。云何作想?凡作想者,一切众生,自非生盲,有目之徒,皆见日没。当起正念,正坐西向,谛观於日欲没之处,令心坚住,专想不移。见日欲没,状如悬鼓。既见日已,闭目开目,皆令明了。是为日想,名曰初观。
解釈:仏陀は心力の弱い人が命終に極楽世界へ往生できるように、衆生に一つの方便の方法を教えました。それはまず西方に向かって日没を観想すること、水観と地観であり、この三観が成就すれば、命終に極楽世界へ往生することが保証されます。全部で十六観あり、それぞれの観には仏力の加持があり、もし衆生が自分だけの力で観想を成就しようとすれば、おそらく非常に難しいでしょう。なぜなら仏は、衆生は心想が弱く観想力が弱いと言われたからです。なぜ衆生の心想は弱く観想力が弱いのでしょうか?衆生は無量劫以来、業種が深重で、世俗の法への攀縁が多すぎ、心思があまりに散乱していて、全精力を一つのことに集中することができないため、一つのことを成就しにくいのです。それゆえ、仏力の加持に頼って観想を完成するしかないのです。
仏は言いました。私はいま韋提希夫人および未来世の一切の衆生に、西方極楽世界を観想することを教えます。仏力の加持があるがゆえに、現世で極楽世界の清浄な国土を見ることができます。それは明るい鏡を手に持って自分の容貌を見るように、極楽世界の勝妙荘厳の事を現前に眼で見ることができるのです。そこで心に歓喜が生じ、内心の歓喜によって、その時に無生法忍を証得します。一切の法が自心に依って幻化されるものであり、すべて無生であり、いずれも真実には存在しないことを知り、この事に忍ぶならば、無生法忍を得るのです。
仏は韋提希夫人に言いました。あなたはいまだ凡夫であり、心力が非常に弱く、観想能力がなく、天眼通もないので、遠くを観ることはできず、まして極楽世界を観ることはできません。しかし諸仏如来にはいくつかの善巧方便があり、あなたに極楽世界を観見させることができるのです。
韋提希夫人は仏陀に言いました。世尊、私がいまこのように、仏力の加持があるがゆえに極楽世界の仏国土を見ることができるように、もし世尊が滅度された後、後世の那些の衆生が心性が汚濁して不善であり、また生老病死の苦に逼迫されているならば、彼らはどのようにして現前に阿弥陀仏の極楽世界を見ることができるのでしょうか?
仏は韋提希夫人に告げて言いました。あなたとこれらの衆生は、専一その心を一処に繫念し、西方に想をなすべきです。どのように想をなすのか?観想を願うこれらの衆生はすべて、生まれつきの盲人ではなく、眼があって色を見られる人々は、みな太陽が西山に沈もうとする景観を見ることができます。あなたがたは正念を生起し、ただ一処のみを念い、西方に面して端座し、一心に仔細に太陽が沈もうとするところを観察し、心を非常に堅忍にこの景象の中に住まわせ、専らこの景象を観想して動かしません。この時、太陽がまもなく沈んでいくのが見えるはずで、その形状は半空に懸かった大鼓のように丸いものです。落日を見終わった後は、目を閉じても開けても、落日の姿をはっきりと見ることができます。時時見ることができ、もはや失われないならば、三昧が成就します。これが日想観であり、十六観の中の初観です。
原文で仏が説かれているのはこの意味です。私たちは観想の便宜のために、太陽が山に沈む時にスマホで録画します。録画の方がより生き生きと鮮明で、観行の記憶に一層役立ちます。落日は白色のものではなく、経の中では橙紅色、赤みの中に少し黄色がかかったものと言われています。落日の真実の相はどのようなものか、自分の眼で見たものでなければならず、真実であればあるほど良いのです。西方の落日は、一般に五、六時台のものです。想像したものではなく、加工(PS)したものではありません。自分の比較的好みの一つを選んでスマホに保存し、長期間観て、長期間観想します。何種類も観てはいけません。必ず専一でなければならず、雑であってはいけません。さもなければ禅定は現れません。また他の図案や背景を加えてもいけません。図案や背景があると注意力が散り、定を得にくくなります。画像は単調であればあるほど良いのです。私たちは景観を鑑賞しようとしているのではありません。鑑賞する心があるということは、それが散乱心であり貪愛心であり、そのようでは禅定を得ることができません。
落日の景象を選んだら、毎日観て、観終わった後に独頭意識で想像し回憶します。回憶が比較的堅固になり、時時思い出せるようになったら、さらに目を閉じた時に眼前に落日の景象が見えるよう自分を訓練します。目を閉じた時に時時落日が現れるようになった後、最後に目を開けても閉じても眼前がすべて落日となり、この景象が消えてなくなることがないならば、日観三昧が成就したのです。
第三観が成就する時、仏陀は衆生の命終に極楽世界へ往生することを保証され、この期間中禅定は永遠に失われません。この修法は非常に殊勝です。三昧が成就する時、重罪は軽くなり、軽罪は消失します。それゆえ、すべての禅定三昧が成就する時には業を消すことができ、とりわけ浄土を修める者は仏力の加持があるので一層業を消すことができ、さらに三昧の境界を失わずに保つことができます。第七観が成就する時には、三悪道の業がすべて消滅し、たちまち開悟し、十方の諸仏が面前に立つのを見ます。
これは意根を改変し降伏する方法です。意根がひとたび降伏されれば、その後どのような禅定を修めても、すぐに成就でき、様々な三昧も修めば容易に成就します。日想観が成就した後、さらに水を観ずれば、水観もすぐに成就できます。その後は地観であり、地観が成就すれば、極楽世界へ行くことが保証されます。
一つの落日の景象を選び、長期間観て、それから回憶します。時刻と思い出せて、忘れることがなくなったら、さらに目を閉じた時に時刻として眼前にあり、時刻として目を閉じて現れることができるようになった後、さらに目を開けて見ることを練習します。もし目を開けても閉じても時刻として落日の景象が見え、失われたり散壊したりすることがなければ、第一観が成就します。第一観が成就した後は、第二観も容易に観成でき、さらには第三観も容易に観成できます。極楽世界への往生には保証ができます。第一観が成就した後は、他のいかなる観行を修めても容易に成就し、念仏三昧も明心見性も難しくはありません。比較的大きな罪業がある者も、このように観行すれば、仏はすでに罪を滅することを保証されており、さらに極楽世界へ往生でき、明心見性もできるのです。
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