衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年02月12日    火曜日     第2 回の開示 合計1252回の開示

修行は次第に従うべきです

通常、修行は次第に修めるものであり、各段階ごとに修行内容が異なり、修行のレベルによっても内容が変わります。凡夫には凡夫の修行法があり、賢者には賢者の修行法があり、聖人には聖人の修行法があります。凡夫が聖人の修行法を使うことは絶対にできません。差が大きすぎて全く力を発揮できないからです。

凡夫は五蘊の生滅変異が無常であることを観じ、四聖諦の苦集滅道を観じるか、あるいは座禅によって心を明らかにすることを求めるべきです。凡夫が八地菩薩の証得した境地、例えば無所住無所着、一切法を空じる、相を取らず分別しない、任運自然などを観じることはできません。

凡夫と悟り後の賢者は、有心と相に執着して善法を修する段階にあります。賢人は既にいくつかの相を破ったものの、そのレベルは未だ浅いのです。この段階で相に執着せず、相において一切法を認識しないということは、できないばかりか、かえって傲慢になり因果を否定する結果となります。例えば凡夫が肉を見た時、これは衆生の肉であると考え、慈悲心から衆生の肉を食べるべきではないと考えるのが正しい修行法です。この時、肉を空と見なし無相と見なし真如と見做し、食べても食べないのと同じだと考えることで大口で食べ始め、自分が真如の境地に入ったと思い込むのは、実は貪欲の境界に入ったのであり、誤った修行法です。

例えば凡夫が男女の相を見た時、男女の相を空じ全てを真如の一相と見做すべきだと言い、自分には既に男女の相がなくなったかのように思い込み、遠慮なく交際すれば、結局は定力が足りず道を踏み外すことになります。このような修行法は悪取空とも呼ばれ、大変な罪業です。もし異性から特別な要求を受けた際、相に執着せず相にとらわれず、相手を空と見做し真如の化身として随縁に任せれば、菩薩戒の十重戒を犯すことになり、地獄行きは必定です。所謂随縁を行うには、必ず随縁の能力を備えなければなりません。内心で空を証得し、真に心を空じて起心せず相に執着しない境地に至るには、初禅の定力と初地以上の菩薩の智慧が必要です。誰もがただ考え、口にするだけで実際にはできず、戒律を堅守して修行する他なく、修行の境界と次第を越えることはできません。

凡夫が過去に造った罪業を懺悔したいなら、相を取って自らの悪心悪行を懺悔し、悪い心行を改めるべきです。ところが大乗の無相懺悔を行い、強引に一切の煩悩を菩提と見做し真如の相だとしつつ、無相を証得できないまま、こう考えた後は心安らかだと感じます。しかし心安らかでも罪業は依然として存在し消えず、果報は容赦しません。これは悪取空であり、果報は寸分違わず訪れます。

私たちが仏法を学び修行するには次第と方法があり、でたらめに行ってはなりません。菩薩ができることを凡夫ができるとは限らず、異性への随縁による教化は凡夫の及ぶところではなく、それは深甚な禅定を得た地上菩薩の行いです。凡夫が行えば必ず三悪道に堕ちます。

現代の仏法は実に混乱しています。多くの者が意識心で巧妙に、地上菩薩や仏陀の修行境地を多少理解したと思い込み、地上菩薩が修すべき法を口先で唱え、自分にもできると考えますが、そんなことがあり得ましょうか。あなたは善財童子ではなく、善財童子の善根福徳もなく、しっかりと禅定を修め観行することも怠っています。

私たちは口先だけの習慣を改めるべきです。仏法は実修して初めて実証できます。実修実証はスローガンではなく、実践可能な具体的な方法が必要です。それがなければ実修ではなく実証もできません。たとえ仏の説いた言葉を話せても何の役にも立たず、単なるスローガンに過ぎません。一歩一歩着実に歩むことで初めて希望が持てるのです。

——生如法師の開示
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