我見を断つ時、意識は現前に五蘊の生滅虚妄性、苦性、空性を観察でき、心中で明らかに五蘊が我ならず、我と異ならず、五蘊と第八識が互いに包含しないことを知る。この知は現量の知である。五蘊が我でないというのは真実の理であり、真理と呼ばれる。意識がこの真理を認知することは真実かつ現実的であり、従前の一切の誤った知見を覆す。故に意識がこの時に見るものは如実の見であり、完全な現量了別であり、従前の非量認識を正す。これが智慧の現量認知である。よって真の我見断ちとは現量の境界である。
明心の時、意識は真の自己である第八識を証得し、この時現前に第八識の体性と運作を観察できる。第八識の清浄性、真如性、不生不滅性、不動揺性などを観察する。意識のこのような観察は現量了別であり、現量境界である。六祖が悟りを開いた時に述べた五つの「何期か自性」は、現量観察による実証の現量境界である。第八識と五蘊・七識の和合運作は、現在進行中の活動であり現実的である。この時の意識の観察了別は現量了別であり、即ち意識が第八識を証得する現量の智慧境界であり、毫末も比量や非量を含まない。もし非量の了別であれば、真の明心開悟とは言えず、このような悟りは想像上の悟りであり、真実の開悟ではない。親証がない故である。
眼で仏性を見る時は、全体の身心世界の如幻観を証得し、現前に仏性の美妙な運作を実感でき、現前に自己の身心世界の如幻如化を実感する。故にこの時の意識は現量了別であり、現量の智慧境界であって、比量や非量の境界ではない。そうでなければそれは想像上の見性であり、真実の見性ではない。親証がない故である。明心見性後の修行過程において、各種の観行の証得は全て意識の現量了別であり、全て現量境界である。修行が深まるほど、意識の現量境界は増え、比量と非量の境界は減る。仏地まで修めると、仏地の意識は全て現量境界となり、比量境界はなく、ましてや非量境界は存在しない。
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