究極的な意味において、一切の法は仏陀にとっては現量(直接知覚)であるが、凡夫にとっては非量(誤った認識)である。なぜなら仏陀は完全にありのままに了知しているのに対し、衆生は誤って了知しているからである。衆生の六識の心は、無始劫(無限の過去)以来、常に意図的あるいは無意識的に自らの意根を欺き、意根に伝達するものはすべて非量の境界である。そのため、意根の汚染性はますます深刻化し、無明はますます深くなっている。もし意識が正しい聖教量(経典の教え)に触れ、如理作意(真理にかなった注意)と正しい思惟を通じて、六識と意根に如理如法(真理と法にかなった)の現量境界を持たせることができれば、一切の法の事実の真相を知ることができる。凡夫は現量観察によって一切の法を真実であると自ら考えているが、実際の結果はすべて虚妄であり、凡夫は正しい結論を一度も導き出したことがなく、往々にして誤った結論を出している。凡夫の現量観察は信頼できない。なぜなら仏法の真実の智慧がないため、このいわゆる現量観察に依拠した結果、生々世々(輪廻転生)において誤った結論によって生死輪廻の苦しみを受けることになるからである。
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