いかなる観察が現量であるのか。例えば、私たちが色蘊の虚妄、生老病死を観察する場合、私たちは皆現前に観察することができ、これは現量です。しかし、色身の刹那生滅は凡夫には観察できません。もし物理学で述べられている電子の瞬間生滅の原理に基づいて、色身が刹那生滅であると推論する場合、このような推理も現量に含まれるのでしょうか。実際、色身の刹那生滅の現象はおそらく仏陀お一人のみが現量で観察できるものであり、これは極めて深い定力と深遠な智慧を必要とします。深い定力がなければ絶対に観察できません。私たちは比量によってのみ知ることができ、その比量が正しく仏陀の正教量に合致するならば、便宜上、現量であるとも言えます。
例えば、私たちが仏陀の教えに従って宇宙器世間の生滅虚妄性を観察する場合、実際には眼識をもって現量で眼前の宇宙器世間の生滅虚妄性を観察することはできません。なぜなら私たちの寿命はあまりにも短く、宇宙器世間の生滅虚妄現象を観察するのに十分な時間的長さを持たないからです。また、宇宙はあまりにも広大であり、私たちの眼界もあまりにも限られているため、宇宙器世間全体を観察することはできません。しかし、もし私たちの心が理に適った思惟(如理思惟)を通じて、最終的にこの理を真に認めることができるならば、これも宇宙器世間の生滅虚妄性を現量で証得したことになると言え、それは理に適い法に随った思惟の結果であり、非量ではありません。
もう一つの例として、刑事が事件を解決する場合を考えてみましょう。現場で掌握した犯罪者の証拠に基づき、比量や非量の思惟推理、推敲などの方法を用いて、最終的に事件を解決し、真相を天下に明らかにします。このようにして行われた比量および非量の観察の結果が正しければ、これも現量の境界です。つまり、事実に合致する比量および非量の推理は、すべて現量の境界に含まれるとも言えます。さらに、学生が幾何学の問題を解く場合も、比量や非量の思考方法を通じて、最終的に問題の正しさを証明します。これも現量の境界です。私たちは色身の刹那生滅現象を現前に観察することはできませんが、理に適い法に随った思惟観行(如理如法的思惟観行)を通じて、最終的にこの点を証明することができれば、その結果として得られたものは現量の境界となるのです。
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