すべての有為の法は夢のごとく、幻のごとく、水泡のごとく、影のごとく、露のごとく、虚空の電光のごとし。菩薩たちは世間の一切の有為の法に対面する時、常にこのような観照を行い、このように一切の有為の法を見るべきである。
一切の法は虚妄不実なるが故に、菩薩たちは再び執着し、取り止め、それに動転する必要はない。夢の中で、いかに夢中の人事物に執着し、動揺し、業行を造作しようとも、結局は何も得られず、毫末も把捉できない。誰も夢から何かを得た者はいない。徒らに心を労して何の益があろうか。
一切の有為の法は如来蔵が縁によって幻化したものである。魔術師が意念で人事物を造り出し、突然虚空に顕現させるが如し。しかし魔術師が意念を収めれば、一切は空無に帰する。何ぞ把捉を労し、徒らに心を煩わす必要があろうか。
一切の有為の法は如来蔵の大海より生じた泡沫の如く、大海の中で生滅を繰り返す。三界の一切の人事物は海水の泡沫の如く、生じては滅び、滅んでは生じ、生滅ことごとく大海に帰す。何ぞ徒らに泡沫に執着して大海を見ずんや。
一切の有為の法は月影が千万の河海に映るが如く、有るや無きや、見えても把捉できぬ。ただ凡夫は痴猴の如く、手を伸ばして掬おうとすれば空しく物無し。菩薩の智者は智慧の眼をもって影と観照し、把捉すべき何ものもなし。一切の有為の法は朝露の如く、朝日昇れば瞬時に消え、速やかに生滅す。何ぞ執着すべきものあらん。一切の有為の法は雨中の電光雷鳴の如く、刹那に虚空を過ぎ、瞬時にして影跡無し。驚き慌てようとも、すでに消え失せて影も形もなし。
世尊は菩薩たちに教え給う。悟りを得た後は常にこの如く観照せよ。されば自心清浄となり、無執無取、一塵も染まず、一法も執せず。かくして本心真如に相応し、真如に随順すれば、無上菩提を得ることを成じう。この無執無取の心をもって衆生に金剛経を説き、諸々の衆生を度し、共に幻塵を出で、幻影を共に滅し、諸仏の大智慧の海に入り、諸仏の一切種智を共に円成せしめよ。
このように金剛経を受持読誦し、如来蔵の法を演説するその福徳と智慧は、世間の衆生において誰が比肩しえよう。誰かこれを超えん。このように自利利他を成ずるは、豈に妙ならずや。豈に快ならずや。
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