衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2018年03月17日    土曜日     第4 回の開示 合計220回の開示

五取蕴の「取」は誰が取るのか

五取蕴は必ず意根が執取するものである。なぜなら、意根は生生世世にわたり存在して滅せず、また主導する識であり、無始劫よりずっと自らを万法の主人と見なしてきたからである。したがって、意根は必ず万法に執着し、一切の法を執取しなければならず、そうしてこそ一切の法は存在して滅せず、もし意根が執取しなくなれば、万法は必ず現前せず、自我は必ず消滅する。意根が色蕴を執取し、受蕴を執取し、想蕴を執取し、行蕴を執取し、識蕴を執取するからこそ、五蕴は生じては滅し、滅しては生じ、生生して已まず、永遠に絶えることなく、消滅しないのである。なぜそうなるのか。如来蔵が永遠に意根に随順して配合し、意根の心行と願いを了知しているからであり、意根が執取すれば、如来蔵は変現し、五蕴は消滅せずに滅び去らない。もちろん、その中には業種と業縁も必要であり、もし意根が執取しなければ、業種は消滅し、業縁は現起せず、万法は現れず、五蕴は消滅する。

意根が色蕴を執取し、相に執着して色身を貪り取るため、豪華な衣服と美食の生活を好み、衣食住に貪着して享受し、色身をあらゆる手入れや世話をする。

意根が受蕴に執着し、感受に貪着し、感覚に執着する。例えばお茶を飲む時、お茶が美味しいと感じ、手を伸ばしてカップを取りお茶を注ぎ、一杯また一杯とゆっくり味わい、心が満足するまで続ける。一体誰が識心にこうして茶の味や感受に貪着するよう指図したのか。それは意根が主導して指図したのである。意根が茶の風味に執着し、感覚に執着するからこそ、貴重な時間を惜しまずにお茶を味わい、さらには酒の味に貪着して酒癖に耽り、身体を傷つけることを気にしない人さえいる。また例えば坐禅で心身が快適に感じる時、身体は動かしたくなくなり、心も怠けて、問題を考えたがらなくなる。これは意根が動きたくなくなり、快適な感覚に貪着するため、身体が起きて活動するのを許さないからである。入定の快適さゆえ、意根が坐禅の感覚を執取し、動きたくなくなり、出定したくなくなる。意根は知らず知らずのうちに多くの感受を執取し貪着しているが、自らは気づかない。なぜなら、意根はこれらの感覚への貪着を自省することが非常に難しく、ただ意識が仏法を学んで覚悟した後、絶えず意根に暗示を与え牽制して初めて意根を降伏させ、もはや感覚に貪着せず、解脱を得て、感覚に縛られなくなるのである。

意根が想蕴を執取するため、天下の大小事を知りたがらずにはおらず、国内外のニュースにすべて注目し、他人のことは自分に関係があるかどうかに関わらずすべて興味を持ち、知るべきかどうかを問わずすべて知りたがる。両耳は天下の事を聞き尽くし、両眼は天下の景色を見尽くし、心には過去・現在・未来の人と事が満ちている。意根が想蕴を執取するため、毎日テレビを見たり新聞を読んだりし、様々な情報資料を収集する。これらはすべて意根が想蕴を執取して六識に造作させたものである。

意根が行蕴に執着するため、一日中造作を止めず、少しも休もうとせず、静かに安住する瞬間もない。東に用事あれば東へ行き、西に用事あれば西へ行き、用事のあるところには必ず現れ、身口意の行いが決して止むことはない。意根がこのように行蕴に執着するなら、どうして禅定がありえようか。

意根が識蕴を執取するため、六方を観て八方に耳を傾け、心の中では思いが渦巻き、絶えず観察し続け、過去や未来が次々と思い浮かび、心を静めて休ませようとしない。意根が六識の識性を執取し、六識を止息させたがらないため、見聞覚知が絶えないのである。もし意根が清浄で無益な造作を望まなければ、六識は静寂となるのである。

——生如法師の開示
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