問う、懺悔偈について:「往昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋痴、従身語意之所生、一切我今皆懺悔」。この中の第二句「皆由無始貪瞋痴」とは、誰の無始の貪瞋痴を指すのか。
答える:無始劫以来の貪・瞋・痴は、現在までずっと続いてきている。それは意識のものであるはずがないのではないか?意識は数十年しか存在せず、意根は無量歳、万万歳、無量劫である。この貪瞋痴は一体誰のものだろうか?意識の貪瞋痴ならば、説得や教育で十分であり、すぐに道理を理解し、降伏させるのは容易で、長年懺悔しても消えないということはない。ある貪瞋痴の悪業は、懺悔した後に好相や瑞相を見て、仏が頭を撫で、仏光が照らさなければ消滅しない。この貪瞋痴の悪業はどれほど根深いのだろうか?意識の貪瞋痴であろうか?意識の瞋がそれほど深刻であるはずがないのではないか?
出家して戒を受ける前に罪業を懺悔する際、長い時間をかけて懺悔しなければならず、大多数の人の悪業は懺悔しきれず、そのため戒を受けることができなかったり、病気になったり、その場で亡くなったりする。菩薩戒を受ける前には、無始劫以来の罪業を懺悔しなければならず、三帰五戒に至るまで、懺悔して初めていくらかの罪業を滅し、戒体を得ることができる。懺悔が清浄でなければ戒体を得ることはできず、出家者に戒体がなければ真の出家者ではない。菩薩戒で戒体を得なければ菩薩でもない。戒体の護持がなければ、戒を犯す時に遮障がなく、容易に戒を犯してしまう。後世にはさらに遮障がなくなり、戒を犯す時に自分が戒を犯していることさえ気づかず、それが当然のことだと思ってしまう。その原因は戒体の遮障がないことにある。
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