まさに意根が非常に聡明であるがゆえに、それは転識と呼ばれます。転識の意味とは、本来存在しない法が、如来蔵の中の法が、意根の攀縁性によって意根によって転じ出されることであり、これが意根の転識が起こす作用です。もし意根が大智慧を持ち、法界の実相を知り、第八識に依拠し、実相に依拠すれば、意根は万法がすべて虚妄であることを知り、心が静まり動かなくなると、ある三界の法は現れなくなり、転じ出されません。もし意根が転じなければ、三界の法は現前しません。意根が三界の法を転じ出し、六識を転じ出すこと、これを転識と呼びます。如来蔵という大海から三界の法を転じ出すこと、これが転識の体性です。
私たちが禅定の中にいる時も、意根は転じています。眠っている時、覚知心は滅しますが、意根は相変わらず絶えず転じ続けています。意根が相続して絶えず転じ、一切の法を転じ出すことができるということは、意根こそが非常に聡明であることを示しています。さらに無想定に入り、滅尽定に入っても、あるいは正死位や昏迷位にあっても、意根は相変わらず絶えず働き続けます。それゆえに転識と呼ばれるのです。意根は定の外では転識であり、定の中でも転識であり、時を選ばず常に転じています。眠っていても、意根はなお絶えず働き続けており、無想定や滅尽定に入ってもなお転じ、一瞬一瞬、刹那刹那に転じていて、一刹那も止まったことがありません。もし意根が転じなければ、有余涅槃となるのです。
つまり、意根の心の動きに依って、意識の覚知心が六塵の境界を現じてそれに合わせ、六塵の境界を了別し、六塵の境界を見ることができる六識が存在し、見られる六塵は境界相と呼ばれ、心と境のすべてが現前するのです。
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