衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2018年03月18日    日曜日     第4 回の開示 合計224回の開示

なぜ意根は転識と呼ばれるのか

まさに意根が非常に聡明であるがゆえに、それは転識と呼ばれるのである。転識の意味とは、本来存在しなかった法が、如来蔵の中の法が、意根の攀縁性によって、意根によって転現されることであり、これが意根の転識作用である。もし意根が大智慧を持ち、法界の実相を知るならば、第八識に依り、実相に依って、意根は万法がすべて虚妄であることを知り、心が静寂で動かないときには、ある三界の法は現れず、転現されない。もし意根が転じなければ、三界の法は眼前に現れない。意根が三界の法を転現し、六識を転現するからこそ、それを転識と呼ぶのであり、如来蔵という大海から三界の法を転現する、これが転識の体性である。

私たちが禅定にあるときも、意根は転じ続けている。睡眠時に覚知心が滅しても、意根はなお絶え間なく転じ続ける。意根が相続不断に転じ、一切の法を転現できるということは、意根こそが非常に聡明である証左である。しかも無想定に入り、滅尽定に入り、あるいは正死位や昏迷位にあっても、意根は変わらず絶え間なく作動し続ける。ゆえに転識と呼ばれるのである。意根は定の外にあっても転識であり、定中にあっても転識であり、瞬時も休むことなく転じ続ける。眠りについても意根は作動を続け、無想定や滅尽定に入ってもなお転じ続け、一瞬一瞬が転識の働きであり、一刹那たりとも停止したことはない。もし意根が転じなければ、それは無余涅槃に至るのである。

すなわち、意根の心の動きに依って、意識覚知心が六塵境界の顕現に呼応し、六塵境界を了別する。これによって六塵境界を見ることのできる六識が存在し、見られる六塵は境界相と呼ばれ、心境がことごとく眼前に現れるのである。

——生如法師の開示
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