衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2018年03月19日    月曜日     第1開示 合計225開示

意根の定

滅受想定に入ると、意識は滅するが、意根はなおも運転している。この定は意根の定なのか、それとも意識の定なのか。この時、意根はなおも転じており、なおも作意・触・思の心所法がある。思心所が運転する限り、境界は現れる。意根が作意せず触せず思わなければ、色身は倒れて涅槃へと去る。ゆえに滅受想定の時、意根はなおも転じている。しかしこの時の定は、必ずや万に一つも漏れず意根の定であって、意識の定ではない。なぜなら意識は消失しているからである。もし消失した識心にまだ定があるなら、眠りに落ちた後も定があるはずである。

六識の出現がなく、意根の心行も受も想もない──これこそが定である。作用が少ないこと、それが定である。滅尽定と無想定の時、六識が現前にないなら、誰が定に入っているのか。必ずや全て意根の定である。無想定と滅尽定には六識がなく、六識は全て滅している。それなら六識はどうやって無想定と滅尽定の中に住して定まることができようか。明らかにこれは不可能である。もし六識がないのに、なお六識に定があるなら、それはどうしてありえようか。昏倒して六識がなければ、それは即ち入定であるなら、我々は皆昏倒すればよいのではないか。眠って六識がなければ、即ち入定であるなら、我々は皆眠ればよく、坐禅して入定する必要はない。

もし意根が定なき状態であり得るなら、意根の攀縁性は以前と同様に、全てを現前させ得る。それなら六識は静寂を得られようか。我々が静坐して定に入り仏法を思惟しようとする時、意根は鳥の声を聞きたがり、景色を賞玩したがり、以前の人事物を了別したがる。すると六識は雑乱に了別する──どうして静寂を得て仏法を思惟できようか。六識は定に入ることができるか。これは不可能である。ゆえに全ての定とは即ち意根を定めることである。意根を定めて初めて六識は静心して思惟できる。

意根は転識であり、万法の竜頭である。意根を定めなければ、万法は皆止まらずに現れ、六識は引っ張られて至る所で了別造作する──どうして定がありえようか。定とは即ち主人を定めること、指揮官を定めることである。僕や兵卒を定めても何の役に立つのか。例えば車を止めて定めようとするなら、運転手を定めるしかない。ブレーキを踏むのである。運転手の隣の副運転手を定めても何の役に立つのか。車を止められるか。泥棒が物を盗むのを制止しようとするなら、泥棒を定めて制止するしかない。無関係の人を制止しても何の役に立つのか。意根が転識と呼ばれる以上、一切法は皆これが転じ出したものであるなら、定とは必ず意根の定である。意根が六識を転出するのだから、意根を定めずに六識を定めても無意味であり、六識は相変わらず意根によって転出される。以上を総括すれば、定とは即ち意根の定であり、修定の目的は意根を定めることである。そうして初めて定が生じ、万法が現前しなくなる。もし意根を繋ぎ止めれば、一切法は成就し得る。意根を繋ぎ止められなければ、六道輪廻する。ゆえに意根に属さない法は一つもない。

——生如法師の開示
前へ前へ

なぜ意根は転識と呼ばれるのか

次へ 次へ

万法出現の因は意根の心動にあり

ページトップへ戻る