意根の心が動くことによって、すべての法が現前するのであれば、では何をもって心の動きというのか。心が動くとは念が起こることであり、何かを造作しようとする欲求が生じ、思心所が現れることを指す。如来蔵はこれを了知し、即座に応じて万法を顕現させる。心が動いた結果が現れるのであり、一切の法は例外なく意根の心の動きによる結果である。では意根に念はあるのか、欲はあるのか、勝解はあるのか。意根に心の念がなく、何も思惟しない状態を、果たして心が動いたと言えるだろうか。それは心が動いていない状態である。もし意根に欲も念もなく、意識の心の動きだけで万法が現れることがあろうか。それは不可能である。仮に意識であっても、それは意根の心の動きの結果であり、また万法の一つに過ぎない。ましてや意識の心が動く以前に、境界は既に現れている。境界が先にあり、後に意識が生じる。さらに言えば、たとえ意識が心を動かしても、意根が動かなければ如来蔵は意識に随順して万法を顕現することはない。必ず意根に随順して万法を顕現するのであり、万法が現れるのはまさに意根の欲と念によるのである。
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