衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2018年03月21日    水曜日     第3 回の開示 合計237回の開示

意根不可思議の慧

五識に貪厭の心行があることは、五識に欲心所があることを示します。末那識に貪厭の心行があることは、末那識に欲心所があることを示します。所縁の境に対して領納性があり、智慧が生じることは、勝解心所があることを示します。法を念じる能力があることは、念心所があることを示します。法において定まり、了別慧が生じることは、定心所があることを示します。分別の智慧があり、相応する択力があることは、慧心所があることを示します。

末那識の慧心所は不可思議です。念仏を唱えて修定を導く際、気力が不足すると、末那識が突然低音に改めることを決定し、音調が直ちに変化しますが、意識はまだ気づきません。末那識と如来蔵の二者が和合して一切の法が如何に生起し、運作し、変化するかを決定しており、多くの場合六識は覚知しません。まさに末那識の慧は不可思議であり、常に一切の法を了知し、機に応じて変化し、如来蔵はその歩調に寸分も遅れずに従います。

色身が特定の栄養を必要とする時、その栄養食品を特に好んで食べ、摂取と吸収が容易になります。色身が特定の養分を必要としない時、色身はそれを排斥して好まず、摂取しません。末那識と如来蔵というこの二者が、一体何をしているのか、意識は本当に想像もつきません。

それゆえ、考えてみましょう。末那識の了別慧は、すべてそれほど低劣なのでしょうか。必ずしもそうとは限らず、どの方面においてかによります。六塵の細かい具体的な内容を了別する際には、智慧は不十分であり、さらに意識がその欠陥を補うことができます。その他の方面では、末那識の智慧は依然として非常に強いため、末那識は非常に利発であると言われるのです。もし末那識の慧が本当に低劣であるならば、どうして五陰身に刹那に反応させ、緊急事態に対応し、常に色身を調節して周囲の生活環境に対応させることができるでしょうか。末那識はまず色身の状況を了別し、その後六識に造作を指揮します。

末那識と如来蔵の二者が永遠に緊密に連携して作用しているならば、末那識を証得し、禅定が具足した時、末那識の全ての心行の場において如来蔵を捉えることができます。これが甚深なる唯識の開悟法門であり、その後その智慧は非常に深細となります。初禅定を修得するやいなや、禅宗の三関は一躍して通り過ぎ、初地に入ることは目前となり、修行は一大阿僧祇劫を超越します。慧根ある久修の大菩薩たちはこのような決心、毅力、勇気を持つべきであり、悟るならば識心において悟り、仏法の究竟の処に至り、八識の和合運作を全て観察し、迅速に唯識の種智を生起させ、将来如来の家業を分担する能力を有し、仏教の中流砥柱となるべきです。

——生如法師の開示
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