衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
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日常法話

2018年03月22日    木曜日     第1 回の開示 合計238回の開示

有相如来と無相如来

須菩提よ。もし人が言うならば、如来は来るが如く、去るが如く、坐するが如く、臥するが如くと。この人は我が説く所の義を解せざるなり。何を以ての故に。如来とは、来る所も無く、去る所も無きが故に、如来と名づく。

釈:世尊は説かれた。須菩提よ、もし人が「如来はかく来たり、かく去り、かく坐し、かく臥す」と表相に見える行住坐臥の如来を言うならば、この人は我が長時説き示す仏法の大義を真に理解せず、ゆえに如来の表相に迷い、真の如来を見ない。なぜそう言うのか。真の如来は来る処も無く、去る処も無し。来も去りも無く、生も滅も無き者、これを真の如来と名づく。

世尊はなんと慈悲深く、衆生のために弊膩垢衣をまとい、この濁悪の世に来臨し、衆生に仏の知見を開示し、経を説き法を語り、疲れを知らなかった。

世尊はここで繰り返し画竜点睛を施し、口を酸くして説き、眉はすでに地に届くほど長く、袈裟の端は泥水に浸かりながら、ただ衆生を邪見の泥沼から引き出し、仏の知見を悟らせ、仏と共に見、共に行じ、再び荒野の小道や険しい所を行かせまいとされた。

衆生の相に執着する習気はすでに骨髄に徹し、邪見の毒刺はまことに抜き難い。やむなく世尊は相を破りまた破り、種々の譬喩と言葉をもって、衆生に一点の相も無き実相の心を開示された。しかしなお多く人が真実の無相如来を見ず、往来し行住坐臥する有相如来のみを見る。しかし有相如来の来去相・坐臥相は消失して見えなくなるだろうか。消失した後、どこで如来を見るのか。その来去相・坐臥相はどこから来て、どこへ滅するのか。なぜ来去坐臥があるのか。心ある者はここに大いに疑問を抱き、深く疑い、見過ごしてはならない。

如来の来相は五蘊色身によって現れ、五蘊七識心によって顕現する。もとより五蘊中の行蘊である。五蘊七識がなければ来相もなく、衆生も見ることができない。この来相は来る前にどこにあったのか。何によって来たのか。この来相は生滅法であり、生滅法はすべて因縁によって生じる。来相には様々な縁が集まり、因によって生じ、因と縁があって来相が現前する。衆生は来相のみを見て、来相がどこから来たのか、来相の因を知らず、これが迷える者が相に執着し真理を知らない所以である。衆生は相に執着して理に迷い、塵に合して覚に背くがゆえに塵労を発し、世間相は絶えず、生死は絶えない。生死相を出離せんとするならば、どうすべきか。もちろん相を起こす因を求め、真如の理を識り、惑業を除き、本来に回帰すべきである。

如来の去相は五蘊によって現れ、七識によって顕現する。もと五蘊中の行蘊である。五蘊七識は何の因によって現れるのか。去る前に来と住があり、来・住の前に因がある。去る時も因を離れず、さもなければ去ることができない。去った後はその相は跡形もなくなるが、去る因は滅せず、それゆえに絶えず去り、また絶えず来て、生住異滅し、循環して止まない。これが生気溢れ、生縁あまねく、あたかも大いなる春のようである。如来の坐相と臥相も、もと五蘊中の行蘊であり、色身と七識によって現れる。色身と七識もまたその現相の因がある。この因によって相は生滅し、衆生は相とその生滅のみを見て、相生滅の起因を見たことがなく、表相に迷い真理を知らない。それゆえに生々不已、死死不断、転々流浪し、迷途より返らない。

衆生の積迷は返り難く、やむなく世尊は八千余度もこの娑婆に来臨し、一手で天を指し一手で地を指し、衆生に示された。「天上天下唯我独尊」と。大いに如来の智慧徳相を顕し、衆生の黏縛を解き塵労の垢を洗われた。大慈の父でなければ、誰がかくの如くせんや。我らがもし如来の孝順の子ならば、世尊が天地を指さされた時、偏袒右肩し右膝を地に付け、合掌して「我が仏よ、如来至尊、我今まさに見る、真実の如来を」と称すべきである。ここより漸く仏業を継ぎ、仏に代わって教化を宣べ、衆生を接引し、迷いを去り智を顕わし、仏の知見に入る。もしこの孝順の子が多ければ、我が仏の事業は後継者を得、仏法は光大し、慈航は普く渡し、普天慶祝し、十方共に薩婆若海に入るであろう。

——生如法師の開示
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