世尊はさらに続けて説かれた:如来というものは、来るところなく、去るところもない。故に如来と名づける。来るところなしとは、如来の来るべき処所が存在しない、つまり来処がない。来処がないにもかかわらず、如来は常に遍く現れ、身なくして隠れず。来処なき如来とは不生であり、本来より存在し、他縁に依らず自在自主、これ真の如来なり。去るところなしとは、処所なくして滅せず、滅せざるは常に遍く存在し、遍く顕現し、遍く作用する。この如来こそ真の如来なり。真の如来は来去の相なくして来来去去し、来来去去しながらも湛然として動かず、威厳堂々、如如として来たり、如如として去り、来もせず去らず、生ぜず滅せず。
衆生に真の如来を識らしめるため、世尊と文殊菩薩は比丘たちに真実の如来義を演じて示された。ある時、比丘たちが講堂に着座すると、世尊は扉を開き、五蘊の三十二相が大衆の前に赫々と現れた。世尊は鵞王の歩みでゆるりと法座に進み、緩やかに結跏趺坐した。坐定まると、文殊菩薩は払子を講卓に打ちつけ「世尊の説法終了!」と宣言した。説法を待ちわびる比丘たちはこの宣言に呆然とした。世尊は比丘たちの困惑を顧みず、徐に法座より立ち上がり、扉に向かい戸を開けて退出され、五蘊の三十二相は消失した。
諸君よ、応身仏の如来相は既に目撃された。三十二相八十種好は威厳に満ち、荘厳この上ない。しかしこの相は娑婆世界に八十年留まっただけで消え去った。これは真の如来ではない。では真の如来はどこに在るか。実は法身如来は応身如来から一瞬も離れず、世尊が扉を開いた瞬間から退出するまで、法身如来は無面目の面目をもって現れ続けた。眼ある者は直ちに看取し、五蘊の背後にある彼を慧眼で識る。この識得こそ何と痛快か。諸君、世尊の五蘊仮相を捨て、捨てられず離れられず、本来不生不滅、不来不去の法身真如来を見よ。良馬は鞭影を見て進み、智者は五蘊の影を見て真人を識る。真人はどこに在るか。咄!ここに在り。
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