衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年03月22日    木曜日     第2 回の開示 合計239回の開示

有情は如何にして真理を悟るか

世尊はさらに説かれた:**如来というものは、どこからも来たのでもなく、またどこへも去るのでもない。ゆえに如来と名づけるのである**。どこからも来たのではないとは、如来が来たと言える場所はどこにも存在せず、したがって来る所もないということである。来る所はないけれども、如来は常に至る所に現れ、身を持たずとも隠れることはない。このように来る所のない如来とは、すなわち不生であり、本来より存在し、他縁に依らず自在であり、これが真の如来である。またどこへも去らないとは、「所」とは場所のことで、去るべき場所がないとは不滅を意味する。不滅とは常に遍く存在し、常に遍く顕現し、常に遍く作用することであり、この如来こそが真の如来である。真の如来には来去の相はないが来来去去し、来来去去しながらも湛然として動かず、威威堂堂として如如として来たり、如如として去り、来もせず去りもせず、生もせず滅もしない。

衆生に真の如来を悟らせるため、世尊と文殊菩薩は比丘たちに真実の如来の義を示す芝居を共に演じられた。ある時、比丘たちが講堂に集い着座すると、世尊は講堂の扉を開け、五蘊の三十二相が大衆の前に赫々と現れた。世尊は鵞王の足取りでゆっくりと法座の前に進み、徐々に結跏趺坐された。世尊が坐を定められると、文殊菩薩は警策を手に机を叩き、「世尊の説法は終わった!」と宣言した。説法を聴こうとしていた比丘たちは突然の宣言に呆然とし、その意味が理解できなかった。世尊は比丘たちの困惑を顧みることなく、ゆっくりと法座から立ち上がり、静かに出口に向かい扉を開けて出て行かれた。こうして五蘊の三十二相は消え去った。

諸君よ、応身仏の如来相はすでに目の当たりにした。三十二相八十種好は威威堂堂として輝かしく、実に荘厳である。しかしこれらの相は娑婆世界にわずか八十年ほど留まっただけで消え去ってしまった。これは決して真の如来ではない。では真の如来はどこにいるのか? どれなのか? 実は法身如来は応身如来から一瞬も離れたことはない。世尊が扉を押して入ってきた瞬間から、扉を押して出て行くまでの全過程において、法身如来はその無面目の面目をもって現れ続けていたのである。眼ある者は直ちに見て、慧眼をもって五蘊の背後にある「彼」を識別する。このように悟ることはなんと痛快であろうか! なんと軽快であろうか! 皆さん、世尊の五蘊の仮の相を捨て去り、捨て去ることのできない、離れることのできない、本来生滅せず、来も去りもしない、あの法身の真の如来を見出してみよ。良馬は鞭影を見て進み、智者は五蘊の影を見て真人を識る。真人はどこにいるのか? 喝! ここに在り。

——生如法師の開示
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有相如来と無相如来

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観行および証得による無我性の覚受の重要性

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