衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2018年04月21日    土曜日     第5 回の開示 合計396回の開示

夢はどのように現れるのか? 夢の中にはいくつの識があるのか?

夢は意根が経験したことと経験していないことへの執着によって生じ、如来蔵はその執着に順じて夢を現出させる。意根の執着性は遍計所執性に属し、意根のすべての心の働きを如来蔵は了知している。了知した後、意根の心念と衆生の業力に順じて夢を現出させ、衆生が夢中で引き続き執着できるようにする。もし意根が執着しなければ、如来蔵は自ら夢を現出させることはない。

したがって、修行が進むにつれ、夢は次第に濁りが清浄に変わり、多夢が少夢になる者もいる。これは修行が意根にまで深く達し、意根が薫習を受けた後、無明が軽減され執着性が減少したためである。阿羅漢たちの意根は我執の煩悩を断じ、世間法への貪着を除いたため、夢が現れることは極めて稀である。

夢の中では第六識・第七識・第八識の三つの識が現行して働いており、前五識は存在しない。そのため夢の影像は非常にぼんやりとしており、覚醒時とは異なる。覚醒時には五塵の境界がはっきりと明瞭であるが、夢の中では五塵の境界は明瞭でない。目覚めた後、目で色塵を見たと感じるが人物の色彩を見ることはできず、色彩や空間の広がり、明暗を感じるのは意識の感覚に過ぎず、真の眼識がこれらの景象を見ているわけではない。夢と覚醒時の見える境界は大きく異なる。

例えば前世の人や他世界の人を見ることは、決して眼識によって見ているのではなく、眼識が絶対に前世や他世界の人を見ることはない。もしそうなら衆生はみな天眼通を得ていることになる。神通や天眼通がなければ、眼識は過去世の人や物を見ることも、未来世の人や物を見ることも、他世界の人や物を見ることも不可能である。もし眼識が見えるなら、眼根はそれらの色塵と相対することができるはずだが、実際には眼根がそれらの色塵と相対することは不可能であり、それらの色塵を縁とすることはできない。さもなければ眼根は前世や他世界に行くことができ、身根も他世界に行くことができるはずだが、実際には身体は依然としてベッドで眠っており、どこにも行っていない。

夢は独頭境界であり、如来蔵が直接に種子を送り出して現出させる法塵の境界である。意根と第六識のみがこれを縁とすることができ、真に明晰に分別できるのは第六識のみである。第八識が業種を送り出し、夢の中の法塵境界を現出させるのは、意根に執着性があるためである。意根が執着し、第八識がこれに順じることで夢が現出する。昼に思うことが夜の夢となるのはこの理を示しており、まさに意根の思心所の思惟によって、第八識が夢を現出させるのである。

——生如法師の開示
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