意識の心念は確かに収められており、疑情以外の法に縁づくことはなく、さらには身体にも縁づかず、身体の存在を知覚しなくなります。意根の心念もまた収められており、そうでなければ意識は収まることができず、必ず意根の攀縁に従ってしまいます。なぜなら、意根が散乱せずに収まっているため、身体と識心は空となり、すべてが消滅するからです。これは単に禅定における無ではなく、思想観念上の空でもあり、すなわち身心が我ならざることを証得し、証果を得たことを意味します。身心を収摂することこそが禅定であり、その後さらに深い禅定が現れ、身心無我の智慧が開発されるのです。
禅定なくして真の智慧が得られるでしょうか。ありえません。仮にあるとしても、それは知解宗徒にすぎません。今や神会和尚のような知解宗徒が至る所におり、教えられるかどうかもわかりません。六祖が当時神会和尚を叱責したのは、まさに現代人を叱るのと同じであり、まだ覚醒していないのです。
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