後天の平等覚性とは、意根が一切の法を平等に対待する体性を指す。意根が本来の不平等性から平等性へ転じる過程は三段階に分かれる。第一段階は初地に入る時、意根が初めて正式に識を転じて智となり、その体性が一分の平等性を具えるようになる。第二段階は八地に入る時、意根が再び識を転じて智となり、より平等な平等性智へと転換する。第三段階は成仏間際、意根が最後に識を転じて智となり、完全な平等性を獲得する。意根が識を転じて智となって初めて、一切の衆生を仏と見、皆が自性清浄心を具え成仏可能であるという基本的な平等性が達成される。
意根の平等覚性は仏地に至って真に平等を具足し、一切の衆生をその真如自性の観点から見る。衆生が自性において平等であることを了知し、不公平な扱いが生じない。衆生の善悪を見て慈悲をかけるのではなく、仏は一切の衆生を平等に扱い、慈悲心をもって観照する。ただし仏は無量の智慧を具え、衆生の根基の利鈍と必要に応じて適切に観照する。我々が如来蔵を証悟していない段階で得る覚りは、全て意識心の覚悟に過ぎない。
意識心の覚悟には多種ある。凡夫の覚悟、明心見性した賢者の覚悟、十地菩薩の覚悟、そして仏の覚悟である。凡夫の覚悟は生活の苦を理解し、苦しみから脱し修行し解脱を求め明心見性しようとするもの。賢者の覚悟は法界の実相を覚り智慧を得、徹底的な解脱と成就を求めるもの。十地菩薩の覚悟は無生法忍の大智慧を得て自利利他を図り、地々に進んで速やかに仏果を円満せんとするもの。後天覚知心の真の覚悟とは明心見性であり、如来蔵を見出した後、一切の法が自性清浄心如来蔵より出生顕現し、一切の法が如来蔵性であることを悟るものである。
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