私が初めて発心し、仏に従って道に入り、数多く如来の説かれる世間の楽しむに足らぬことを聞いた。町で托鉢する時、法門を思惟しながら歩んでいたところ、道中で毒刺に足を傷つけ、全身に痛みを覚えた。私は知覚あることを念じ、この深き痛みを知った。覚えて痛みを感じつつも、清浄なる心には痛みの感覚がないことを悟った。
さらに思惟した:この一身にどうして二つの覚知があろうか。念を摂めてまもなく、身心忽然と空じる。三七日のうちに諸漏虚尽し、阿羅漢となる。仏より直々の印可を得て、無学の位を明らかにす。仏が円通を問われしに、私の証する所は純粋なる覚性が身を忘るるこれ第一なり。
釈:私が修行を始めた頃、仏に従い道に入り、度々仏の説かれる世間の虚しきことを聞いた。ある時托鉢中に法門を思惟し、毒刺で足を傷つけ全身が痛んだ。その時「知る」という作用が痛みを深く認識していた。身識は痛みを感じつつも、清浄心自体は痛覚を持たないと悟った。
さらに「一つの身にどうして二つの覚知があろうか」と疑情が起こり、念を集中させるうちに身心が空じた。21日間で煩悩が尽き阿羅漢果を得、仏から無学の位を認証された。私の修行法は「純粋な覚性に住して身を忘れる」ことにあり、これが最上の道である。
痛みを感じる知覚は身識によるが、それを認識する意識が二重の働きをする。意識は身識の痛みを認識すると同時に、自らの認識作用をも観察する(証自証分)。尊者は痛みの中でも清浄心を保ち、疑情を通じて禅定に入り五蘊無我を悟った。21日間の禅定で煩悩を断じ、戒定慧を具現して解脱の智慧を得たのである。
この修行体験は全て実修による体得であり、現代人のような理論的理解ではない。当世の修行者は禅定もないまま理論を語り、理解を悟りと錯覚している。尊者が罵倒されても改まらぬ現代の状況は、まさにその鏡と言えよう。
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