衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年05月02日    水曜日     第1 回の開示 合計434回の開示

真如心と意識心を混同すべからず

法は本来法なし、これは如来蔵というこの法の中には、一つの法も存在せず、形も相もなく、心の本体が本来空であることを意味します。この言葉は、成仏を求める心や修行の念を捨てよと説いているのではありません。もしそうすれば、生死の火坑から解脱することはできません。仏法を学ばない者は皆、成仏を求める心も修行の念も持たず、永遠に生死輪廻の中に留まるのです。

善も思わず悪も思わない心とは、真如の心を指します。この心は三界の法や六塵の法を思考する機能作用を持たず、元より思うことがなく、善悪是非を知りません。善悪を思わないというのは、意識をも善悪是非を思わない状態に置けば真如になるということではありません。意識心が何も思わない時、それは禅定に入った状態であり、これは依然として意識心の境界であって、真如の本心が本来持つ状態ではありません。したがって、意識心が善悪を思わない時を真如と見做し、悟りを開いたと考えるべきではありません。意識が禅定に入って思考を止めてしまえば、参禅することはできず、参禅せず思考しなければ、悟りを得ることはできないのです。

私たちが修行によって体得した智慧の境界は、全て言葉で表現することができます。表現できないものは、真の悟りを得ていない可能性があります。如来蔵がどこにあるか、どれがそれか、どのように作用するかは全て表現可能で、簡潔な言葉で明快に説明でき、長文でより詳細に語ることができます。仏が四十九年間説法しても、如来蔵の法を語り尽くすことはできず、ほんのわずかな一部を説いたに過ぎません。まだ語られていない法は極めて多く存在します。ですから真に悟りを証得すれば、誰でも如来蔵を表現でき、正確に伝えることができるのです。

——生如法師の開示
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