第八識の証自証分について、第一に凡夫や地前の菩薩は第八識の証自証分を観察できないということ。第二に第八識の証自証分の内容は意識の証自証分の内容とは異なる。第八識には我がなく、我の存在を知らないが、しかしそれもどの法を運行したかを知り、すでに運行したものは繰り返さず、未完了のものは継続して運行し、いかに運行すべきかを知っている。
第八識の無我性を有する証自証分は、言語で明確に説明するのが極めて困難である。ちょうど第八識の了別性と了知性のように、第八識は六塵を了別するか?もちろん了別する。さもなければどうして六塵を顕現し、六塵を改変し、六塵を執持できようか。しかし第八識のこの種の了別は、六識のように具体的な内包を了別することはできず、六塵を了別した後に、了別したものが何であるかを知ることもない。第八識が六塵を了別した後、何も知ることなく、再び了別と運行を続ける。第八識の機械的な了別方式は、ちょうどコンピューターがプログラムを了別するようなもので、コンピューターも字体を了別し字体を書き出すが、字体が何であるかを知らず、意識は字体が何であり、どのような意味を持つかを知る。
洗濯機も指令を了別して衣類を洗うが、指令の具体的な内容や意味を何も知らないのと同じで、意識はそれを知っている。第八識の運作了別了知性は、あたかもロボットのような無心さであり、作業を行っても結局何をしたかを知らず、意識はそれを知っている。
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