第七識の知が仏性であるという見解があるが、これは真実と妄念を区別できず、仏性の妙用を根本的に理解していない。第七識にも知はあるが、その知は仏性の見覚性とは機能作用が異なり、同一ではない。仏性は第七識を離れずに存在し顕現するが、第七識の知の内実は仏性とは大きく異なる。第七識は第八識の識大が起こす作用であり、仏性は第八識の見大が起こす作用である。『楞厳経』で説かれる見大こそ仏性であり、仏性は思惟で明らかにすべき対象ではなく、深く参究する必要もない。あまり明らかにしようとすると福徳と定力が具わらず、仏性を見ることが困難となる。
明心した後、禅定と福徳を修め、両方が具足した時に初めて仏性を参究すれば、仏性を見る機会が得られる。一つでも条件が欠ければ見性は望めない。故に条件が熟さない時は仏性の内実を深究せず、福徳を積み定力を修めるべきである。未到地定が深まった時、細心に仏性を参究すれば、その時に見性の因縁が生じる。
第七識はどのような法を知るのか。第七識には微細な了別慧があり、六塵の法塵境界を知り、第八識が顕現する一切の法塵相を知る。ただしそれは粗い概略を知るだけで、細部や具体的な内容までは知らない。第八識が何を現起しようと、第七識はそれに縁り、縁ったものを知るが、その知は具体的な法塵を認識できず、大まかな輪郭のみを把握する。
参禅に用いる知は、表面的には第六識の知が主であるが、後期段階や深層では意根である第七識が主体となる。第六識が第七識に協力し、関連する理論的根拠を提供することで、第七識は深く細やかに思量し択択する。しかし第六識の知性は常に第七識の知と不可分であり、第七識が深く微細に作用するからこそ、第六識は分別了別性を発揮できる。参禅は主に意識を用いて行い、この知性を修め、絶え間なくこの知の念を意根の心に懸け、さらにこの念を話頭に転換すれば、参禅は急速に進む。知念が転じた瞬間に参禅の念となり、一切法を知る念を話頭に換え、公案に換え、ある法の内実に換えることで参究が可能となり、いつの日か証悟を得るのである。
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