衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2021年04月05日    月曜日     第2開示 合計3271開示

父子合集経講記(一九〇)

万般带不去,唯有业相随

仏は、少しの法もこの世から他の世へと来たるものは無い、と説かれました。私たちは仏の言葉を信じ、この世では何ひとつ持ち運べないこと、ただ業のみが身に随うことを知ります。そうであるなら、私たちはよくよく考えてみなければなりません。この一生、どのように生きるべきか、どのようにすれば善業を多く持ち、悪業を持ち運ばずに済むのかを。私たちは仏法に出会い、学仏修行をしているのですから、学仏の機縁を大切にし、福業を多くなし、善法を多く修め、一心を仏法に用い、世間法はそこそこに過ごせばよく、より多くの善業の種子を未来世へと持ち運び、将来において善報を多く受けるようにすべきです。

しかし、善業であれ悪業であれ、その本性はもとより空であり、主宰となることはできず、生じ滅するものであり、生ずるに来る所もなく、滅するにも行く所もなく、幻化にして実ならないものです。たとえば私が刀を取って人を殺すとき、この行為をする前には、この業は存在せず、来る所もありません。この行為の造作にも造作する人はおらず、表面の現象は魔術師が幻化したもののようで、業を造る者はいません。人を殺す行為は、色身と識心とが和合して働き出したものであり、色身は虚妄であり、識心も虚妄であり、いずれも実有ではありませんから、五陰の行為は真実のものではありません。しかも、人を殺す行為が現れた後は、一瞬にして跡形もなく消え去ります。したがって、行為の造作そのものがもとより空であるにもかかわらず、業種は残されるのです。

そして業種そのものもまた空であり、来たる所より来ることなく、滅する所へ去ることもなく、一無所有から一無所有へと至ります。受報の後には、業種もまた跡形もなく消滅します。業種もまた空であり虚妄のものです。もし業種が虚妄でないならば、受報の後、あるいは懺悔の後にも、業種は消えるはずがありません。もし業種が消えないならば、衆生は永遠に受報し続けるはずであり、果てしなく、人を殺した者は永遠に地獄で受報し、永遠に人に殺され続けるはずであり、終わりの期がないことになります。したがって、すべての罪福の業は虚妄であり、来たる所より来ることなく、去る所へ去ることもない、と言えるのです。とはいえ、すべての福業は、終には衆生をしだいに成仏へと向かわせ、ついには最終的に仏果を成就せしめます。すべての罪業は、終には衆生の苦受を尽きさせず、哀嘆を止ませません。あれこれと分析してみれば、阿頼耶識 (Ālayavijñāna) だけが真実不変であり、不生滅であり、永遠に存在するものであり、そのほかの一切の法はすべて空であり、幻化であり、刹那刹那に生じ、刹那刹那に滅し、その生滅は稲妻よりも速いのです。

——生如法師の開示
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父子合集経講記(一八九)

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四念処をいかに観行するか

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