衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2021年04月05日    月曜日     第1開示 合計3270開示

父子合集経講話(一八九)

五蘊の集合体は虚妄であり、幻化した仮合が衆生と名付けられる

例えば、数人が集まって団体を形成した場合、この団体もまた虚妄です。それぞれが離れれば団体は消滅します。この団体は存在すると言えば存在し、解散すると言えば解散するもので、自律的な実体ではなく、因縁が具足した時に仮に集まったに過ぎません。存在すると言えば存在し、無いと言えば無くなるもので、実体性がありません。この団体は単なる仮の名称、一つの概念に過ぎず、その状態を表現するための言葉に過ぎないのです。この団体は虚妄な仮名であり、単に集まった状態に「団体」という名称を与えただけです。この団体は実体として存在するものではなく、甲が団体なのか、それとも乙が団体なのか。個々では団体とは呼べず、集まっても本質的に団体ではありません。私たちは集合によって生じた仮象に、言語や交流の便宜のために名称を与えているだけです。すべての存在がこのようなもので、無理やり名称をつけているに過ぎません。

同様に、五蘊も同じです。五蘊は様々な条件が集まって形成されたもので、仮に存在する状態に過ぎません。この状態は生じたり、消滅したり、分散したりするもので、不滅の実体ではありません。五蘊の各機能——見ることも、聴くことも、味わうことも、触れることも——が分散してしまえば、五蘊自体も存在しなくなります。したがって衆生の五蘊も実在しないのです。五蘊の構成を分析することは、団体の構成を分析するのと同じ理屈です。実際、五蘊にどのような名前をつけても構いません。私たちのこの五蘊の形態を「人間」と名付け、別の五蘊の形態を「蟻」や「蚊」と名付けるのは、区別のためであり、本質的には全て五蘊の集合体です。五蘊の機能が分散消滅すれば、衆生は存在しなくなります。いわゆる衆生とは全て幻化した仮合なのである。

——生如法師の開示
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