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日常法話

2021年04月04日    日曜日     第3開示 合計3269開示

父子合集経講話(一八八)

識心は縁によって生じ、生滅は虚妄にして我ならず

原文:大王よ。かの識が生起する時、来るところなく、滅するに至るところなし。その縁が生ずる時、来るところなく、滅するに至るところなし。かの業が生ずる時、来るところなく、滅するに至るところなし。大王よ、いささかな法も、この世からあの世へ至ることはない。なぜならば、自性空なるがゆえに。

釈:仏は説かれた。大王よ、最初の識心が生起する時、来る所がなく、滅する時も去る所がない。識心を生じさせる縁が生ずる時、来る所がなく、滅する時も去る所がない。造作された業行が生ずる時、来る所がなく、業行が滅する時も滅する所がない。大王よ、一つの法もこの世から来世へ移行することはできない。なぜそうなのか。一切の法の自性は空であるからだ。

我々が母胎にいる時、幾つかの識心が生起するが、それはどこから我々の身に来るのか。来るところがあるだろうか。来るところはない。来る所が見つからない。我々の識心が滅する時、どこへ消え去るのか。去る所もない。滅する行き先が見つからない。

識心の縁が生じた後、識心が現れるが、この縁も来るところなく、去るところもない。識心の生起にはいくつかの助縁が必要であり、助縁がなければ識心は生じない。例えば眼識を生じさせるには九つの縁が必要である:明(明るさ)・空(空間)・根(眼根)・境(対象)・作意(注意)・分別依(第六識)・染浄依(第七識)・根本依(第八識)・種子(識の種子)。ゆえに眼識は理由なく生じるものではない。この九つの条件が全て具足して初めて眼識が生じ、具足しなければ生じない。それ故に母胎内では胎児に眼識はなく、母胎内には光明と空間がないからである。母胎内で最初に生じる識は意識であり、意識の生起に必要な縁が比較的少ないため、意識は生起しやすい。空間がなければ、手が眼前に密着していると眼識は手を見ることができず、太陽光や灯光がなければ眼識は物体を見ることができない。条件が具足しなければ眼識は生じない。よって因縁の条件が具足して初めて眼識が生じる。眼識が縁に依って生じることは虚妄であり、不自主(自らを主としない)である。眼識自体が自らの存在を決定できず、自主性がない。

他の幾つかの識も同様である。例えば耳識の生起には八つの因縁条件が必要であり、光明を除く他の幾つかの縁が全て具足して初めて耳識が生じる。鼻識・舌識・身識の生起には七つの縁が具足する必要があり、光明と空間を除く他の縁が全て具足して初めて鼻識・舌識・身識が生じる。意識の生起には:作意・意根(第七識)・法塵(対象)・阿頼耶識(第八識)・意識の種子という五つの条件が具足する必要があり、五識に比べて必要な縁が少ないため、現行を起こしやすい。一方、意根の生起に必要な縁は作意と第七識の識種子のみであり、縁がさらに少ない。それ故に意根は常に現行しており、滅することが非常に困難である。意根が三界の法に対して作意を起こさなくなり、三界への貪愛を断った時、初めて意根は滅する。よって、様々な因縁条件が集まって生じる法は、生滅する法、虚妄の法、我ならざる法であると言える。

——生如法師の開示
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