衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2018年09月07日    金曜日     第4開示 合計817開示

三昧と正受とは何か

三昧 (samādhi)、正受とは、定慧等持の身心の境地である。人が一つの法義に出会い、起心して深く思惟 (manasikāra) し参究したのち、突然、内心が法義と相应し、法義の内包を深く明らかにし、法義の指し示す深層の義を証得したとき、智慧が湧き発し、内心は言い表せないほどの無上の喜びを感じる。

そののち身心は軽安で快適となり、行住坐臥は虚空に処するがごとく、人の無い境地に入ったかのようであり、内心は空曠にして、広博にして静謐であり、思想は深邃で、頭脳は敏捷である。気脈が胸腔と肩に湧き上がり、後背は挺拔し、胸腔は開闊し、両肩は沈み、身は燕のごとく軽い。内心は空空として何もなく、空と相应し、無我と相应し、四相無きことと相应する。見るすべてのものが、みな虚幻不実と感じられ、思惟は深沉にして専一、細密にして明晰である。心中には楽感が絶えず、祥和安寧であり、繁雑な妄想や浮念はもはや無い。過去は無く、将来は無く、当下もまた実在せず、三際は脱空し、空もまた存しない。心胸は寛闊にして慈祥であり、寛容大度で、人の非を争わず、善悪を計らず、色声香味触法に執着せず、五欲の前では猶ほ行屍走肉のようであり、八風に吹かれても動かず、猶ほ珍宝の山に坐するがごとし。

定慧斉しく資け、偏り倚ることなく、その二者の一つでも欠ければ、すなわち三昧ではなく、二者に偏りがあれば、正受ではない。定慧等持こそ、真の三昧であり、また真の正受である。

——生如法師の開示
前へ前へ

呼吸と禅定

次へ 次へ

打坐前の呼吸調整の方法

ページトップへ戻る