三昧と正受とは、禅定と智慧が等しく保たれた身心の境地を指します。ある者が法義に触れ、深く思索探究した後、突然心に法義が響き渡り、法義の内奥を深く理解し、法義が指し示す深層の意義を体得した時、智慧が湧き起こり、心に言葉では表せないほどの歓喜が生じます。
その後、身心は軽やかで安楽となり、歩く・止まる・座る・臥すすべてが虚空にいるが如く、人のいない境地に入ったかのようになります。心は広く静寂に満ち、思想は深遠で頭脳は鋭敏となります。気脈が胸腔と肩に満ち、背筋は伸び胸郭は開き、両肩は沈んで身は燕のごとく軽やかです。心は空々として無我と一致し、四相なきものと調和します。目に映る全ては虚妄であり、思考は深く専一で緻密かつ明晰です。心には絶え間ない歓喜と安寧が満ち、雑多な妄想や浮ついた念は消え去ります。過去も未来もなく、現在すら実在せず、三際は空に溶け、空そのものも存在しません。心は広大で慈愛に満ち、寛容で度量が大きく、他人の非を争わず善悪を計らず、色声香味触法に執着せず、五欲の前では空っぽの亡者の如く、八風も動かすことできず、宝山に坐するが如しです。
禅定と智慧を偏りなく修め、両者が揃ってこそ真の三昧であり、正受となります。どちらか一方が欠けても三昧とは言えず、偏りがあれば正受ではありません。禅定と智慧が等しく保たれることが真実の三昧であり、真の正受なのです。
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