衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年10月28日    月曜日     第3 回の開示 合計1994回の開示

雑阿含経第1巻(三十一)

舍利弗は输屡那に告げました。もし沙門婆羅門が色について如实知できない、色の集を如实知できない、色の滅を如实知できない、色の味を如实知できない、色の患を如实知できない、色の離を如实知できないため、色を超越できません。もし沙門婆羅門が受、想、行、識について如实知できない、識の集を如实知できない、識の滅を如实知できない、識の味を如实知できない、識の患を如实知できない、識の離を如实知できないため、この沙門婆羅門は識を超越できません。

もし沙門婆羅門が色について、色の集、色の滅、色の味、色の患、色の離を如实知する場合、この沙門婆羅門は色を超越できます。もし沙門婆羅門が受、想、行、識について、識の集、識の滅、識の味、識の患、識の離を如实知する場合、この沙門婆羅門は識を超越できます。

释:舍利弗は输屡那に感受しました。もし沙門婆羅門が色陰について如实知できない場合、色陰の苦、空、无常、無我を知らない。色陰の集起を如实知できない場合、色陰は業緣所感、因緣所生であることを知らない。色陰の滅を如实知できない場合、色陰は苦集滅道の修行によって滅除できることを知らない。色陰の味着を如实知できない場合、色陰に貪味することは生死解脱できないことを知らない。色陰を貪着する場合、種々の苦患があることを如实知できない、生死苦や輪回苦を解脱できないことを知らない。色陰を離開できることを如实知できない場合、四聖谛の修行によって色陰を離開できることを知らない。種々の不如实知により、色陰を超越できず、色陰に困扰缠缚され、解脱できず、苦悩無量となります。

もし沙門婆羅門が受、想、行、識について如实知できない場合、受、想、行、識の苦、空、无常、無我を知らない。受、想、行、識の集起を如实知できない場合、受、想、行、識は業緣所感、因緣所生であることを知らない。受、想、行、識の滅を如实知できない場合、受、想、行、識は苦集滅道の修行によって滅除できることを知らない。受、想、行、識の味着を如实知できない場合、受、想、行、識に貪味することは生死解脱できないことを知らない。受、想、行、識を貪着する場合、種々の苦患があることを如实知できない、生死苦や輪回苦を解脱できないことを知らない。受、想、行、識を離開できることを如实知できない場合、四聖谛の修行によって受、想、行、識を離開できることを知らない。種々の不如实知により、受、想、行、識を超越できず、受、想、行、識に困扰缠缚장、解脱できず、苦悩無量となります。

もし沙門婆羅門が色陰について如实知する場合、色陰の集、色陰の味、色陰の過患、色陰の離を如实知する場合、色陰を超越できます。もし沙門婆羅門が受、想、行、識について如实知する場合、受、想、行、識の集、受、想、行、識の味、受、想、行、識の過患、受、想、行、識の離を如实知する場合、受、想、行、識を超越でき、解脱を得ます。

この如实知は一般的了知ではなく、証得後の知です。如实の二字は实际情况と同じことを代表します。实际情况を知るには、親自証得見なければならない。親自証明することで如实知を得ます。否則、証拠ない臆想、想象、猜测に似ています。修道人が如实知を達成することは非常に困難です。途中、多くの辛苦参究の历程を経験しなければ、实证でき、如实知を得ます。五陰の集、味、患、離を親自証得する場合のみ、五陰の生死を超越でき、解脱を得ます。

——生如法師の開示
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