衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年10月23日    水曜日     第1開示 合計1974開示

思量した後、さらに現量観察してはじめて有用となる

意識の私、意根の私というものを考えてみてください、それはただきわめて虚妄な存在にすぎないのではないでしょうか。強大で真実の存在は、真如心だけであり、真如心こそが不可思議な真常体、智慧体なのです。これらのことを知ったなら、あなたはまだ、微塵ほどにも渺茫で虚妄不実なこの人世間の愛憎恩讐、喜怒哀楽、得失成敗を、いつまでも心に引きずって悩むのでしょうか。以上は一人の修行者の感慨であり、感悟とも言えるものです。しかし、たとえこのような感悟があったとしても、身心世界を根本から転換し変えるには、やはりこの基礎の上に、如実に禅定の中で観修を行じ、実証して初めて、身心世界を変え、真にある程度の解脱を得ることができるのです。考えることは意識の能力の範囲であり、実証は意根に頼らなければならず、意根には現量が必要です。したがって、ただ考えるだけではあまり役に立たず、さらに現量で観察し、現量で認知しなければなりません。世間のすべては空であり、すべて如来蔵が幻化したものだと知っていても、それほど大きな役には立ちません。次の段階の実際の修証が必要であり、証得して初めて、心は空となり、解脱の力が生じるのです。ある人たちは、一日中、世間は夢幻泡影のようだと心に思い、まるで本当に夢幻泡影であるかのように感じています。しかし事が差し迫ると、あるがままのままであり、少しも夢幻泡影ではありません。真に夢幻泡影と証得するのは、十回向位で、初地菩薩に成りかけているときであり、そのときになって初めて心行が変わるのです。しかし、実際の観行の前には、理論上の知見はやはり具足していなければならず、心に相似の空がなければならず、理論に対してある程度の解があってこそ、この基礎があって、禅定の中で実際に参究観行することができ、実証に希望が持てるのです。

——生如法師の開示
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