衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年09月13日    金曜日     第1 回の開示 合計1913回の開示

正死位にて悟りを開くことは可能でしょうか?

問:ある人が「死後に悟りを開くことができる」と言っています。死後、五蘊が散壊し四大が分離し、中有の身がまだ生じていない隙間が真如であるとのことですが、どうも彼の言うこの状態は無余涅槃に似ているように思えます。師父、詳しくお説きください。この人は本当に悟りを開いているのでしょうか。

答:もし五蘊が散壊し四大が分離し、中有の身が未だ生じていない隙間が真如であるというなら、その時は真如以外何も存在せず、意根もなく六識もなく色身もなく、ただ真如のみが存在する状態、つまり無余涅槃の境地に達し、三界の生死の苦から解脱したことになります。

もし万人が死後に無余涅槃の境地に入るというなら、我々が四念処観を修行し四聖諦の理を学び、我見を断って解脱を求める努力は何の必要があるのでしょう。仏陀がこの世に来て阿含経を説き衆生を解脱に導いたことも、まったく無意味になってしまうのでしょうか。明らかにこれは誤謬です。

死後中有の身が未だ生じていないこの隙間において、色身と六識は既に滅びていますが、意根は決して滅びません。そうでなければ、どうして後に中有の身が現れることができましょうか。どうして来世の五蘊世界が存在し得ましょうか。意根が中有の身を必要とするからこそ、第八識が中有の身を生じさせて意根の求めに応じるのです。凡夫や三果の聖者以前の意根が滅びない以上、この隙間には第七識と第八識が存在しており、どうしてただ真如のみと言えましょうか。

仮にこの時ただ真如のみが存在し、無余涅槃の境地であるとしても、いったい誰が悟りを開くのでしょう。第六識第七識がなければ、悟る主体は存在しません。真如自体が自らを悟るのでしょうか。明らかにそうではありません。

死後のこの隙間に意根と七・八の二識が共存し、相互に離れることができない状況で、果たして悟りは可能でしょうか。もし悟りが開かれるとしても、意根単独の悟りとなりますが、意識の補助がなく、意識が意根に「これが真如である」と導くことがない状態で、意根単独で真如を識別するほどの大智慧を具えているでしょうか。明らかに不可能です。もしそうなら、衆生は死後に悟りを開く確率が極めて高くなり、多くの人が早期の死を願って聖果を成就しようとするでしょう。以上の考察を通じて、この人が悟ったかどうかは、自ら判断されるべきです。わたくしが明言する必要はありません。

——生如法師の開示
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