百法明門における虚空無為とは、第八識の本体が虚空のように如如不動であることを指す。これが無為の性質である。第八識は永遠に如如不動であり、どのような境界に遭遇しても、心を動かすことはなく、心性は無為である。真如無為とは第八識の無為性を指し、非擇滅無為も第八識の無為を指す。
不動無為とは、七つの識が四禅定に修至した時に、心が念を動かせず無為となり、身は呼吸、脈搏、心跳なくなり、無為不動となる。身心ともに無為となることを不動無為と呼ぶ。擇滅無為と想受滅無為は、七識の無為を指す。意根は滅尽定において想と受をなくし、作意、触、思のみ存在し、心行の大部分は無為となる。
六種無為法においては第八識の無為を述べ、また七識の無為を述べる。真妄ともに包含される。実際、第八識は本来無為であり、心性無為。それが衆生のために五陰を服務する有為性を妨げず、有為において心性は決然無為である。第八識の無為心性を超越する法があるか?ない。七つの識は永遠に第八識より更無為となることはなく、五蘊も永遠に第八識より更無為となることはなく、第八識より更無為的法は存在しない。第八識は本来無為法であり、七識が相当程度に修至すれば、漸次無為となり、後天的無為は有生有滅である。百法明門中の六種無為法は七識所修出的無為も包含するため、無為法にも真妄之分がある。
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