実に、至る所に青山が広がり、荒れた草は見当たらない。一本の茎、一枚の葉、一筋の糸さえも、実在して虚しさはないが、その跡形はない。人々の中を千度も探し求め、ふと振り返れば、灯火の揺らめく闇の中、至る所に在りながら、何処に非ずということがあろうか。言葉も出ず、かつては心も目も盲目であったが、今や目に映るのは金色の光ばかり。これが悟りを開いた者の感慨である。
証果と明心の条件が整えば、どんな因縁に遭遇しても証果と明心を成就できる。仏が説法する場に遇えば更に容易に証果と明心見性が叶う。仏の威徳と加持力は甚大であり、仏の説法する法会の磁場効果は計り知れない。まして仏在世の修行者は皆深甚な禅定を得ており、心は清浄で出離心を具え、煩悩は微細、善根と福徳は深厚であった。故に仏の音声を聞くや、その教えに従って観行思惟し、即座に証果と明心を成就したのである。
末法の衆生は仏在世の衆生と比べるべくもない。善根は浅く福は薄く、心は浮ついて禅定もない。仏法が如何に詳細に説かれても心に染み入らず、真の証果など到底叶わず、せいぜい理解する程度が関の山である。衆生に禅定が普遍的に欠如している現状から、「禅定を修めず直接観行すればよい」との説が生じた。しかし禅定なき者に如何にして観行の能力があろうか。何を観行できよう。どれほどの時間を観行できよう。どの程度まで観行できようか。各自が試みるがよい。禅定前の観行と禅定後の観行の効果の差は、実に雲泥の差であり、本質的に別物と言える。
一つの法義を、禅定中に思惟するのと禅定なく思惟するのとでは天地の差がある。故に多くの者が仏法を思惟しても真実義を理解できず、誤解と曲解に満ちている。実際に証得し現量で観行するのは至難の業である。それでも多くの者は自らの理解力を過信し、頻りに経文を引用して自説の根拠とする。実は経文の真意と自説は一致せず、多くの誤解を抱いたまま自覚すらしていない。
経典を研究する者の多くは、経典の真義を如実に理解できぬまま、自らを有能と思い込んでいる。実は仏法は研究で究められるものではなく、深甚な禅定による如理思惟と観行参究によって初めて真に理解し実証できる。研究のみでは実証は不可能である。
ある者は仏典に「衆生が仏の説法を聴聞した瞬間に証果と明心を得た」とあるのを見て、彼らは禅定も修めず直ちに証果したと思い込む。あたかも法を聞き少し思惟すれば証果でき、特別な修定は不要であるかの如く。この誤解は甚だしい。実は即座に証果した者たちは既に禅定を具足し、善根福徳が深厚で、ただ因縁を待っていたに過ぎない。仏説法という最殊勝の因縁に遇えば、当然容易に証果と明心見性が叶うのである。
彼らは証果者の最終結果のみを見て、その者がどれほどの修行の道程を歩み、仏説法を聴く前に如何に精進し、如何に発心し行持し、如何に禅定を修めたかを見ようとしない。必要な条件を全て無視し、ただ最終段面だけを切り取るのは、最も深刻な断章取義である。
現代人は焦燥の余り近道を求め、簡易直接を尊ぶ。仏が歩んだ道さえも踏襲せず、自らの方法が仏より実用的で直接的だと妄信し、基礎を築かず代償も払わず、苦労して禅定を修め自心を調伏する必要もなく、研究だけで大成果を得られると考える。凡夫が仏より優れ、仏より智慧があると言うのか。仏の修行は回り道で、己の道こそ最直接だと言うのか。砂上の楼閣のような研究成果は、風に吹かれれば散り、火に遇えば溶ける。今世に蔓延る偽りの果は大根判子同然で、風波にも耐えられず、死後の果報は自ら知るべきである。
衆生は無明と業力の違いにより、様々な果報を招き、異なる色身という正報と環境という依報を得る。一つの業報が終われば、次の業報に入る。業報が異なれば色身も異なり、脳の構造組織も異なり、顕れる智慧も行為表現も異なる。
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