衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年08月11日    日曜日     第2 回の開示 合計1807回の開示

意根の心行

夜中に眠りに就いた時、身体に冷たい触覚が生じると、その後、身識と意識が生起して冷たさの問題を解決します。夜中に眠りに就いた時、身体に痛みの触覚が生じると、身識と意識が現れ、痛みの触覚を感受して処理します。意識はなぜ出現するのでしょうか。もし意根が冷熱や痛みを知覚できるなら、なぜ意識が現れる必要があるのか。その根本的な理由は、意根自らが問題を処理解決できないからです。

六識が存在しない状況下では、それらの心行は全て意根の心行です。六識が極めて微弱な状況では、それらの心行もほとんど意根の心行に帰属します。植物状態の人間を観察すると、彼らが苦痛を感じているかどうか、植物状態を望んでいるかどうか、ベッドに横たわり続けることを欲しているかどうか、食事時に食べる意思があるかどうか、最も親しい人を見た時の反応はどうか──これらは全て意根の心行と覚受を説明するものです。

昏迷状態において、意根が昏迷を望んでいるかどうか、どのような表現が見られるか、これらの表現から意根の心行を観察できます。もし昏迷中に意根が捨受であるなら、意根は如来蔵のように無関心でいられるはずであり、そのまま昏迷を続けるでしょう。しかし身体が少し回復すると、意根は六識を生起させ、五蘊の機能を促します。これは意根が昏迷を望まず、昏迷に甘んじていないことを示しています。なぜ意根は昏迷を望まず、甘んじず、好まないのでしょうか。昏迷中は第一に快適でなく、第二に五蘊の活動がなく無為であるため退屈を感じ、退屈もまた苦受です。昏迷中に快適さを感じるなら、意根は当然ながら昏迷状態を維持するでしょう。座禅で入定した際に起座を望まないのは、意根が快適さを感じていることを示しているのではないでしょうか。もちろん意識が比較的清明で入定が快適と感じる場合、静坐に貪着し、起座を望まなくなるのです。

——生如法師の開示
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