衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年08月08日    木曜日     第5 回の開示 合計1792回の開示

依義不依語における「義」と「語」とはそれぞれ何を指すのか?

仏が説法をする際、衆生に対し仏の説いた法の中の真実の義に依るべきことを説き、仏の言葉の表面的な表現に依るべきではないと教えました。言葉は表面的な意味であり、義は暗黙の真意を指します。ではなぜ仏は直接真意を説かず、表面の言葉に真意を隠されたのでしょうか。

言葉は意識と相応し、表面的な意味に留まります。しかし文字言語の背後には、深層の意根が表現しようとする真意が存在します。特殊な状況下では、自身の真意を直接表現することが不便であったり、望ましくなかったり、困難であったりする場合、人々は暗黙裡に真意を込めて発言や著述を行います。聞き手は言葉の表面を超え、弦外の音を聴き取って真意を理解しなければなりません。衆生が表面的な意味を理解するのは比較的容易ですが、それはあくまで真実の義ではなく未だ究竟ではありません。深層の真意は衆生にとって理解困難ですが、それがまさに説き手の真意であり、伝えようとする核心なのです。

よって仏が臨涅槃の際、弟子たちに「義に依りて語に依らず」と諭し、衆生に究竟の義に依るよう説かれたのです。究竟の義こそ仏が伝えんとする真実の教えです。もし衆生が言葉の表面のみで理解し論じるなら、仏の真意を理解せず、仏教の真義を曲解することになります。

一般人の発言にも明示と暗示が存在します。明示は表面の意味、暗示は真の意図です。明示は意識が言語で表現したものであり、暗示は言葉の背後に潜む真意です。なぜ直接真意を表明しないのでしょうか。状況によっては、真意を直接表現できない場合があります。相手が受け入れられない、理解できない、誤解を招くことを懸念する場合。あるいは方法論や戦略的な問題として、人々に深く思索させ、自ら深慮を重ねて得た結論の方がより受け入れられ、智慧が深まる場合です。

言語芸術に通じた者はこのように巧みな方便を用います。仏の説法さえ時として間接的であり、心中の真義を直接表明されません。一つには衆生が理解できない、あるいは誤解を生むことを懸念されるため。もう一つは衆生を導き、より深い思索へと至らしめ、自ら結論を得させることで智慧と信心を増長させるためです。特に異なる根器の衆生が混在する場では、深遠な義を直接説くことは適切ではないからです。

——生如法師の開示
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繰り返しは必ずしも意根に理を明らかにするものではない

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