意根については、声聞人は簡単に理解すればよい。意根は六根の一つであり、意識を生じる依り所であることを知り、意根もまた生滅変異するものであることを知れば十分で、それ以上深く知る必要はない。大乗の菩薩も、明心(悟りを開くこと)以前は、意根を深く知る必要はなく、明心したばかりの初級段階においても陽炎観(幻影を見極める観法)を通過する前までは、意根について多くを知る必要はない。
しかし末法の世、特に現代においては、衆生の修学がすべて急功近利の心にあり、心性が浮ついており、禅定も持たず、禅定を修めることもできないため、往々にして意識的理解をもって悟りとし、あるいは意識的解悟をもって悟りとする。未来世の果報は恐るべきものであるため、現代では意根について多く説く必要がある。解を悟りと誤認する恥ずべき現象が増えるのを防ぎ、口先だけ中身のない現象が深刻化するのを避け、仏教における虚浮な現象が悪化するのを防がねばならない。仏法が一旦変質すれば、後世の人々は依るべきものを失う。意根を説くことで、人々に解悟と証悟の区別を明らかにさせることは、焦眉の急を救い、仏教の混乱を深めることを防ぎ、仏教が早期に滅びることを回避するための止むを得ざる措置である。
多くの人々は戒律を守ることを好まず、束縛を恐れ、また禅定の修行の辛苦を厭い、安逸を貪り、自らの心性を改め無明の煩悩を破ることを望まず、ただ早く最後の果を得て聖人となり、栄光に輝きたいと願う。空から餡餅が降ってきたためしがないことを知らないのである。このような都合の良いことがあるなら、釈迦仏や十方諸仏が衆生に知らせず、戒定慧や菩薩の六波羅蜜などを説いて衆生に如此に辛苦の修行をさせるとは、いかなる意味があろうか。
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