識は身に在りて、闇の体の如し。視るも見えず、執持すべからず。母が子を懐くが如く、自ら知ること能わず。是れ男か女か。黒白黄色か。根具足するか不具か。手足耳目か。類とするかせざるか。飲食熱きに触れば、その子便ち動く。苦痛を覚知す。衆生の来去し、屈伸し視瞬し、語笑談説し、担運し重きを負い、諸の事業を作すに、識の相は具に顕れる。しかれども識の在る所を知ること能わず。身の中に止まるも、その状を知らず。
釈:阿頼耶識が五陰の身にある様は、闇の如く形も色も無い。目で見ようとしても見えず、捉えようとしても触れられず、全く執持できない。これは無形無相でありながら万法に顕現する特性を喩えたものだ。ちょうど母が懐胎時に、自分が懐いた子が男女どちらか、肌色は黒・白・黄のいずれか、六根が具足しているか否かを知らないようなもの。昔は検査機器が無く、胎児の性別や容貌、手足・眼耳の有無など全く分からなかった。
しかし母が熱い食事を摂れば、子は熱刺激を受けて胎内で動き、母は痛みを覚える。冷たいものを摂れば子も耐えられず動き、母は苦痛を感じる。こうして初めて子の活動を知るのである。
胎児を阿頼耶識に喩え、母を衆生の五陰に喩える。衆生の五陰が往来し、腰を屈め伸ばし、目を瞬き、語り笑い、水を担ぎ柴を運び、身体に重きを負い、一切の事業を行う時、阿頼耶識の相貌は全て顕現する。だが衆生は阿頼耶識の働く場所を知らず、身中に止まるその状態も知らない。恰も懐胎の母が子を知らぬ如くである。
阿頼耶識は無形無相で、衆生はその姿を知らない。しかし五陰が活動する時、阿頼耶識が現前することを知る。ここに禅宗の公案が生じる。阿頼耶識は証得し易く、明心は極めて速やかである。この経文はほぼ明らかに阿頼耶識を表している。公案を参究する時、容易に悟り得る。参禅自体は難しくないが、定力が不足すれば証悟は困難で、解悟は比較的容易である。従来掴めなかった参禅の方向が、この大乗顕識経の教えによって明らかになる。阿頼耶識は常に五陰を離れず、真法は仮法を離れず、仮法の作用に真法の顕現がある。この参究の方向は極めて明確である。しかし三十年参究しても方向が分からず、阿頼耶識の証得法も知らず、参禅が第八識・如来蔵を悟る道であることも理解しない仏弟子もいる。
衆生の往来屈伸、瞬目語笑、運搬作務に、識相は具現する。これを詳細に解説すれば、一般の禅宗公案も理解できる。しかし阿頼耶識の具体的な作用が分からなければ、単なる解悟に留まり真の証得ではない。阿頼耶識の具体的な作用を参究し尽くして初めて証悟となる。証悟後は直ちに智慧が増す。大まかな状況は参究できても具体的な作用が分からなければ、せいぜい解悟の域を出ない。阿頼耶識が衆生の身中にあることは知りつつ、その具体的な状態を知らない。一般的な知見が不十分な段階では、阿頼耶識が各所で作用することは知っていても、具体的に何処で如何なる作用を為すか全く分からず、証悟までにはまだ隔たりがある。更なる精進が必要である。
0
+1