雑阿含経巻一
(九)かくの如く我聞けり。一時、仏は舎衛国の祇樹給孤独園に住したまえり。爾の時、世尊は諸比丘に告げたまわく、色は無常なり。無常なるものは即ち苦なり。苦なるものは即ち非我なり。非我なるものはまた我が所有にも非ず。かくの如く観ずる者を、真実正観と名づく。かくの如く受・想・行・識は無常なり。無常なるものは即ち苦なり。苦なるものは即ち非我なり。非我なるものはまた我が所有にも非ず。かくの如く観ずる者を、真実観と名づく。聖弟子よ、かくの如く観ずる者は、色に厭離し、受・想・行・識に厭離す。厭離するが故に楽しまず。楽しまざるが故に解脱を得。解脱する者には真実智生ず。我が生は已に尽き、梵行は已に立ち、所作すべきことは已に為し終え、自ら知る、後に受くることなしと。時に、諸比丘は仏の説きたまう所を聞き、歓喜して奉行せり。
釈:世尊は諸比丘に告げたまわく、色蘊は無常なり、無常の法は即ち苦法なり、苦の法は我(妄我)に非ず、我(妄我)に非ざれば、また我(妄我)の所有にも非ず、我と我所は異ならず、いずれも我に非ず。この如く観行する者こそ、真実の観行者なり、真に観行する者なり。この如く観行せざれば、即ち如実に観行する者に非ず、如実に観行せざれば、色蘊が非我なることを如実に証得できず、身見を断つことができず。
色蘊の無常性についての観行の内容は多く、禅定の中で理にかなう如法如実の思惟観行が必要であり、ただ考えただけでは観行を終えたとはならず、心中で認めたからといって合格したと見なしてはならず、身見を断つことが近いと考えることはできない。実際には意識がどう思おうと意味をなさず、意根が認めることが真の修行である。そして禅定を離れれば、意識の想いや思惟はいずれも意根に深く入り込むことができず、意根は自らの思量を行うことができないため、色蘊無常という真理を理解することができない。意識が平常に考えるごく簡単な道理も、意根にとっては決して簡単ではない。したがって必ず禅定の中で深く透徹した思惟を行い、証拠が充分であることを求め、理に基づき証拠を示し、さらに意根にこれらの証拠と論拠を消化する一定の時間を与えなければならない。
一旦意根が色蘊が確かに無常であることを理解すれば、意根は感慨を抱く、長年累月にわたり色蘊のためにこれほど多くの代価を払うことが果たして値するのか? 意根は値しないと感じ、以後色身への愛着は減少し軽減される。これが実修の過程における身心の覚受の変化であり、一人の人間が真に修行を始めれば、修行が力あるものである限り、身心は必ず変化が生じる。そうでなければ、修行がうまくいっていない、修行に力がないということになり、その場合は再び方法を考え、さらに精進しなければならない。
このような実修の過程がなければ、根本的に実証は不可能であり、意識による理解は無意味である。それは単なる理論に過ぎず、理論は誰でも得られるが、実証する者は万人に一人もいないかもしれない。実証者には自ら独自の見解があり、必ずしも多くの人に認められるとは限らない。なぜなら大多数の人は実修しておらず、往々にして当然と思い込み、実修の筋道が分からず、まして実証の智慧の境地など知らないからである。思い込みと実修者の思考は大きく異なる。理論家は往々にして思い込みに陥り、実際の修行の段階と過程を経ていないため、法に対する認識は非常に粗雑で、大雑把であり、細部に至ることができず、説法は核心を突かず、詰問に耐えられない。実証者は誰に詰問されようと、必ず一定の規範を持っている。
色蘊の無常を観行した後、次の段階では無常の法が即ち苦法であることを観行しなければならない。この段階は自らの思い込みだけでは不十分であり、必ず禅定に深く入り思惟しなければならない。なぜ無常の法が苦法なのか? 証拠が充分でなければならず、少しのこじつけも曖昧も疎かも許されない。色蘊の無常を真に観じて苦受を生じさせ、かつ心中(意根)が確かに苦であると真に認め、疑いがない状態でなければならない。意根が一旦色身の無常苦を理解すれば、必ず苦を好まなくなり、必ず自らが経験してきた苦に感慨を抱き、次第に自覚的に苦への追求を減らしていく。
実修の中では、意根が色蘊の真実相を知り、真実の理を理解するため、絶えず感慨や嘆息を発し、新たな決意を持つようになる。そうでなければ修行が不十分であり、情思意解の理論が実際の観行よりも多くなっている。
次に最も重要な点は、如何にして意根に苦なるものは我に非ずと思わせるかであり、これが最も困難な段階である。以前意根は色蘊が我であるか、あるいは我の所有であると思い続けてきたが、今その知見を否定し、180度方向転換して、以前自らが間違っていたと認め、色蘊は決して我でも我の所有でもないと理解させることは、やはり相当に難しい。
意根が一旦色蘊は我でも我の所有でもないと認め確信すれば、身見は断たれる。しかし身見は容易に断たれるだろうか? 実に容易には断たれない。各人が自らを省みるこの世の毎年毎月毎日、内心中に根深い身見があり、色身を実体と見なし、我と見なし、我のものと見なし、貪愛貪執し、念々色身の我であり、保養や世話は至れり尽くせりで、衣食住行はまず自らを考え、色身のために造作した業行は数えきれない。したがって身見は確かに断ち難い。
しかし理論上では身見を断つことはそれほど困難ではない。ある人々は考え抜くだけで色蘊は我ではないと知り、自らは身見を断ったと思い込む。この世界に理論上で身見我見を断った人がいったいどれほどいるか、もはや数えきれない。知見上で五蘊が無我であると認めることを、知解宗徒と呼ぶ。この言葉は六祖が最初に言い出したもので、六祖は神会和尚を予言して知解宗徒であるとし、果たして神会和尚は生涯知解に留まり、実証しなかった。
7
+1