色蘊を観じてその無常・苦・空・無我を認めた後、さらに受蘊が無常であることを観じる。無常なるものは苦であり、苦なるものは無我である。方法と手順は色蘊を観じる場合と同様で、禅定なくしてはならず、理にかなった思惟なくしてはならず、証拠が不十分ではならず、意根が日夜精進して思量しなければならない。意根が受蘊が無常であり、無常なるものは苦であり、苦なるものは私でも私の所有物でもないと認めた時、その思想観念は変化し、知見も変化し、心の行いも徐々に変わっていく。
各段階の観行において、意根が一つの真理を認知し、自らの無知を明確に見極めたならば、感慨と感嘆が生じ、決心と態度が生まれ、身心の変化を促す。したがって、各人が実修を経たかどうか、実修中であるかどうかは、身体状態と精神状態に反映され、隠しようがない。
受蘊を観じた後、さらに想蘊を観じ、想蘊の無常を観じ、想蘊の無常の苦を観じ、想蘊の苦が私ではなく私のものでもないことを観じ、最後に真実として認めなければならない。少しでも躊躇があってはならない。その後、行蘊・識蘊の無常性を観じ、行蘊・識蘊の無常の苦性を観じ、さらに苦が私ではなく私のものでもないことを観じる。このような観行こそ真実の観行であり、最終的に合理的で法に適った真実の結論を得て、身見・我見を断ずることができる。
仏は説かれた。聖弟子が真実このように観行したならば、色蘊に対して厭離の心が生じる。色蘊を厭うがゆえに色蘊を喜ばず、色蘊を喜ばないがゆえに色蘊から解脱し、色蘊に束縛されなくなる。真に身見を断除した後は、必ず多かれ少なかれ厭離心が生じる。もし厭離心が生じなければ、身見は断たれていない。これは必定であり、仏の説かれた言葉は全て真実である。仏語に依り仏語を信受してこそ、修行は正道から外れない。もし自ら身見を断ったと考える者がいれば、自心を反観し、本当に色身を好まず、色身を宝愛せず、色身を維持しようと策を講じなくなったかどうかを検証すべきである。理論上で身見を断った知解宗徒にはこのような現象はなく、身心に変化もなく、生活習慣も以前の凡夫のままである。
色身のために悪業を造作することなど考える必要もない。色身を喜ばず、色身を宝愛しなければ、悪業を造作する必要がなくなり、善業は引き続き造られる。これは必定である。心がある程度空じられていないからだ。
仏は説かれた。聖弟子がこのように真実を観行する者は、受蘊・想蘊・行蘊・識蘊に厭離する。厭うがゆえに受想行識蘊を喜ばず、喜ばないがゆえに心は解脱し、受想行識蘊に束縛されなくなる。心が解脱した者は、真実の智慧、解脱の智慧を証得した。四果の阿羅漢は言う。「私の生命はこの世で終わり、未来世はない。私の清浄な梵行は既に確立された。今世で成し遂げたいことは完了した。私は自ら未来世がないことを証明できる。もはや受生を継続しない」と。
もちろん仏の説かれた厭離と不喜楽は、初果から四果までの段階を含む。心は次第に色受想行識に厭離し、ますます色受想行識を喜ばなくなり、心はますます解脱する。解脱の明確な指標は、観行の智慧が深まるにつれ禅定が深まり、初禅定に到達した時、定中の貪欲と瞋恚という二つの煩悩が断たれ、心が欲界から解脱することである。観行の智慧がさらに進む時、三界の生死から解脱する大いなる智慧が現れる。これが慧解脱の阿羅漢である。
自ら果を証したと考える者で、身心が終始変わらない者は、必ず理論上の証果であり、理論上の知見を得たに過ぎず、業障と生死に抗し得ない。神会和尚は13歳で数ヶ月山を越え六祖を参拈した時、六祖は彼が知解宗徒であることを一目で見抜かれた。90歳で入滅するまで、彼は常に知解宗徒であった。実修実証は容易か。決して容易ではない。仏道が容易に求められると言うな。無始劫の業障習性は克服が難しく、業障習性の関門を突破できなければ、どうして心安らかに実修できるだろうか。
修行は人が脱胎換骨する過程であり、漸進的な過程である。大根器・極大根器でなければ、中間の段階的な変化過程なしに突然証果によって自らが変わることを望むべきではない。身心の変化は実際の修行の開始時から現れ、次第に明らかになり、変化は増し、感悟も深まる。量の蓄積が一定に達して初めて質的飛躍が起こり、身心が脱胎換骨するのである。
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