衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年10月21日    日曜日     第1開示 合計933開示

禅定は解脱の智慧を得るためのものである

修定において、外道の定の要素が多い場合、修定は貴重な修行時間の浪費となり、臨終の際には一生の修行が何の成果もなく、何の智慧も得られず、依然として生死の業縁に従って輪廯を繰り返すことになる。多くの人は自分の禅定が優れていると自負し、一旦入定すると何もわからなくなるか、あるいは様々な不思議な現象が現れるが、実際には最終的にこれらは跡形もなく消え去り、依然として何も得ることはできない。修定の目的は心を静め、その後専心して仏法を思惟観察し、仏法を証得し解脱の智慧を得ることにある。解脱の智慧を得られなければ、その禅定は追求する価値がない。

心に正念を持つこと。禅定を修得した後は、真如を念じ、五蘊無我を念じ、一切の法が無常であることを念じ、心に仏法を念じ続けることが正である。心の念いが散乱していれば、正ではない。すでに身体と識心がどちらも自分ではないと知っているなら、それは思惟観察の結果であるべきである。今まさに全てのことを行おうとしている心が自分ではないと観察すること、これが観行である。物事を行いながら自問する:どうしてこれが自分であろうか? どうして自分ではないのか? これが観行である。定中の観は意根に深く入り、意根が観行に参与し、それに相応する。このように修行すれば非常に良く、道を証得する望みがある。

意識がもし自らの色身から飛び出して自分自身を観察し、傍観者の視点で自分を観察できるなら、それは意識の証自証分の機能であり、意識の反照作用であり、反観力とも呼ばれ、慧力ともいう。自らの心の行いと煩悩習気をはっきりと照見できる。力と呼ばれる以上、強度があり、心中の疑いを解き、問題を解決できる。これが正しい修行である。もちろん、問題が解決されたなら、その中には意根の力もあり、意根は意識を借りて自らの心の状態を観察し、それによって自らを変える決意をし、如来蔵がその変化を助けるのである。

一日中あぐらをかいて座禅を組む人々は、どんなに座りどんなに定に入っても、依然として自心を観察できず、反観がなく、覚照力も慧力もない。依然として五蘊無我を知らず、無我の解脱智慧を生み出せず、生死の大事を解決できない。我々はよく四念処の方法に従って修行すべきであり、きっと大きな収穫があり、徐々に五蘊の作用がどれも実体がなく、どれも自分ではないことをありのままに観察できるようになる。

意識心を身体の外に跳び出させて自分自身を観察してこそ、何らかの悟りを得ることができる。色身と完全に融合してしまうと、覚照力を失う。自らの心の行いを点検するときも、心を跳び出させ、自分自身を反観してこそ、自らの心の行いを観察できる。最終的に観るものと観られるもののどちらも自分ではないと観察し、心を捨の状態に住まわせ、心の中の一切の相を消滅させる。その無我で実体がないという結論を自然に導き出すべきであり、無理に当てはめたり、こじつけたりしてはならない。

——生如法師の開示
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戒・定・慧を具えて初めて悟りを証得し解悟を避けられる

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