修定において、外道定の成分が多ければ、修定は貴重な修行時間の浪費となり、臨終の時に自分の一生の修行が何の成果もなかったこと、いかなる智慧も得られなかったことに気づき、やはり生死の業縁に随って輪廻が絶えないことになる。少なからぬ人が自分の禅定の良さを誇りに思い、定に入ると何も知らなくなる、あるいは不思議なことが次々と現れると考えているが、実は最後にはこれらはすべて跡形もなく消え去り、やはり何も得ることはできない。修定の目的は心を沈静させ、その後一心に仏法を思惟観行し、仏法を証得して解脱の智慧を獲得できることを期するものである。もし解脱の智慧を獲得できないならば、その禅定は追求する価値がない。
心に正念がなければならず、禅定を修出した後は、一心に真如を念じ、五陰無我を念じ、一切法無常を念じる。心に仏法を念ずれば、それが正であり、心念が散乱すれば正ではなくなる。身体も識心も我ではないと知っているならば、それはすでに思惟観行の結果であるはずだ。今まさにあれこれ事を為そうとしている心が我ではないと観察すること、これが観行である。事を為しながら自らに問う:これがどうして我であり得ようか?どのように我ではないのか?これが観行である。定中観は意根まで深く入り込むことができ、意根が観行に参与し、それに相応する。このように修行すれば非常に良く、証道の希望がある。
意識がもし自分の色身の外へ飛び出して自分を観察し、傍観者の角度から自分を観察できれば、それは意識の証自証分 (svasaṃvedana) の功能であり、意識の反照作用であり、反観力 (pratyavekṣā-bala) といい、慧力 (prajñā-bala) とも呼ばれ、自分の心行と煩悩習気をはっきりと照見することができる。力と呼ばれるからには、力強さがあり、心中の疑惑を解きほぐし、問題を解決できる。これが正修行である。もちろん問題が解決できたならば、その中には意根の力があり、意根は意識に助けられて自分の心行の状態をも観察し、それによって自分を変えることを決定し、如来蔵 (tathāgatagarbha) がその変化を助けてくれるのである。
一日中あぐらをかいて座禅を組んでいる人たちは、どのように座りどのように定に入ろうとも、やはり自心を観察できず、反観できず、覚照力と慧力 (prajñā-bala) がなく、やはり五陰無我を知らず、無我の解脱の智慧を生み出すことができず、生死の大事を解決できない。我々は四念住の方法に従ってしっかり修行すべきであり、必ず大きな収穫があり、徐々に五陰の作用はいずれも真実ではなく、いずれも我ではないと如実に観察できるようになる。
意識の心を身の外へ飛び出させて自分を観察してこそ、覚悟が得られるのであり、色身とすっかり融合してしまえば、覚照力を失うことになる。我々が自分の心行を検査しようとする時も、心を飛び出させて反観し、はじめて自分の心行を観察できる。最後に能観と所観を観察し、いずれも我ではなく、心は捨の状態に住し、心中一切の相を泯滅させる。あの無我は真実ではないという結論を自然に導き出すべきであり、機械的に当てはめたり、無理やりこじつけたりしてはならない。
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