「どうして我の中に想があると見るのか。色を我と見て、想がその中に住するとする。受・行・識を我と見て、想がその中に住するとする。どうして想の中に我があると見るのか。色を我と見て、想の中に住し、四体に遍く存在するとする。これを想中我と名付ける。
「どうして行が即ち我であると見るのか。六思身を指す――眼触によって生じる思、耳・鼻・舌・身・意触によって生じる思。この六思身の一つ一つを我と見ることを、行即ち我であると名付ける。どうして行が我と異なると見るのか。色を我と見て、行を我所とする。受・想・識を我と見て、行を我所とする。これを行異我と名付ける。
「どうして我の中に行があると見るのか。色を我と見て、行がその中に住するとする。受・想・行・識を我と見て、行がその中に住するとする。これを我中行と名付ける。どうして行の中に我があると見るのか。色を我と見て、行の中に住し、四体に遍く存在するとする。受・想・識を我と見て、行の中に住し、四体に遍く存在するとする。これを行中我と名付ける。
釈:どうして想蘊が我であると見るのか。想蘊とは六想身――眼根が色塵に触れて眼識が生じ、眼識に想がある。耳根が声塵に触れて耳識が生じ、耳識に想がある。鼻根が香塵に触れて鼻識が生じ、鼻識に想がある。舌根が味塵に触れて舌識が生じ、舌識に想がある。意根が法塵に触れて意識が生じ、意識に想がある。意根がこの六つの想を全て我と見做し、我(意根)が即ち想であると考える。これを想即ち我(意根)であると名付ける。
どうして想が我と異なると見るのか。意根が色蘊を我と見做せば、想蘊は我所となる。意根が受蘊・行蘊・識蘊を我と見做せば、想蘊を我所とする。これを想異我と名付ける。
我の中に想があると見るとは。意根が色蘊を我と見做せば、想蘊は色蘊の中に存在する。意根が受蘊・行蘊・識蘊を我と見做せば、想蘊はそれらの中に存在する。想蘊は我所となる。
想の中に我があるとは。意根が色蘊を我と見做せば、色蘊が想の中に住し、我が想の中に存在して四肢に遍く。意根が受・行・識蘊を我と見做せば、それらが想の中に住し、我が想の中に存在して全身に遍く。これを想中我と名付ける。
どうして行蘊が我であると見るのか。行蘊とは六思身――眼根が色塵に触れて眼識が生じ、眼識に思がある。耳根が声塵に触れて耳識が生じ、耳識に思がある。鼻根が香塵に触れて鼻識が生じ、鼻識に思がある。舌根が味塵に触れて舌識が生じ、舌識に思がある。意根が法塵に触れて意識が生じ、意識に思がある。意根がこの六つの思を全て我と見做し、我(意根)が即ち思であると考える。これを行即ち我(意根)であると名付ける。
どうして行が我と異なると見るのか。意根が色蘊を我と見做せば、行蘊は我所となる。意根が受蘊・想蘊・識蘊を我と見做せば、行蘊を我所とする。これを行異我と名付ける。
我の中に行があると見るとは。意根が色蘊を我と見做せば、行蘊は色蘊の中に存在する。意根が受蘊・想蘊・識蘊を我と見做せば、行蘊はそれらの中に存在する。行蘊は我所となる。
行の中に我があるとは。意根が色蘊を我と見做せば、色蘊が行の中に住し、我が行の中に存在して四肢に遍く。意根が受・想・識蘊を我と見做せば、それらが行の中に住し、我が行の中に存在して全身に遍く。これを行中我と名付ける。」
0
+1